恥をかくのは生きてる証拠*オオカミの遠吠えと思おう
元マラソン選手の増田明美さんのお父さん作の川柳に、
「生きている証拠に今日も恥をかき」というのがある。
随分前にどんなところで目にしたかは忘れたけれど、
増田明美さんは、期待されていた1984年の
ロサンゼルスオリンピックの本番で、途中棄権した経験がある。
その後の帰国時に空港で罵声を浴びて、摂食障害に陥った。
逃げるように海外留学もしたと思う。
人が何かを失敗のようなものをした時に、
これ幸いとばかりにたたきつける人々がいる。
形を変えたオオカミの遠吠えがほとんどだ。
匿名性が守られやすい現在も、当時と変わらないか、
それ以上にヒートアップしてると思う。
当時二十歳の増田さんは、
どれほどの神経疲労されたのか想像が及ばない。
パーソナルスペースというものは、
有名人には存在しないと真面目に思っている人がいる。
自分と同じ人間だと思わないので、つまりは
自分自身を、自ら卑下していることを晒していることに気が付かない。
自分自身を高みに置いているのではなく、
ただ卑屈な考えを持っていることに気が付かないだけなのだ。
自分が大多数の集団の中に属していると思うから、
集団の中では何を言ってもいいと思っている。
人が多ければ多いほど、その錯覚は確信される。
就学後の学校でのクラス分けは絶妙な形だ。
そのクラスが一つの世界を共有しているように見えるけれど、
それぞれの思いとそれぞれの個性は全く別物で、
それぞれの世界を最初から形作っていることに気が付かない。
クラスの中で「自分は王様だ」「自分は人気者だ」という錯覚を起こすと
その学校を卒業した時に現実との乖離に戸惑うことになる。
思春期は、良くも悪くも自意識過剰の世界に暮らしている。
ペットボトルに詰め込まれていると思っていたのは、
本当はふんわり広がった空気の中でいるべきものだったのだと知る。
だけども最初から、空気の中に放り込まれていれば、
その自由や有難みが分からない。
息苦しさを知っているからこそ、深呼吸で体を整えることを知る。
ペットボトルに詰め込まれていた時に、恥だと思ってしまうのは、
回りの目を気にして、失敗を恐れる卑屈で不自由な考えだ。
広がる空気の中でかく恥というものは、
笑いや励ましや応援や勇気への称賛を引き寄せる。
ペットボトルに詰め込まれたままの世界に甘んじていれば、
誰かの失敗は面白いし、挫折は自分が踏みつける気分転換になるのだ。
ロダンの考える人は、地獄をのぞき込んでるという説もあるけれど、
反対に、地獄からものぞきまれていることに気が付かなければ。
「恥ずかしいくらいの事を書かなければ、人は感動しない」と、
自分はソングライターと語るアーティスト。
「恥ずかしくてすっぴんでなんか歌えない」と、
本当はシャイな忌野清志郎。
元気も勇気も感動も、
いつでも、恥に見えることから生まれているのかも。
恥なんて思わない人だけが、毎日を楽しんでいる。