病み学生の作り方
もう捨て垢、思い出したくもない病み垢というのが私にはある。高校2年から3年にかけてずっと使ってきた。胡散臭い占い師や自称カウンセラー、精神科に入院したことのあるユーザーや裏垢えろ垢にフォローされていた。病んだことを書けば、共感してくれてファボを投げてくれた。それだけで、当時の私は満たされ、生きていた。家でも学校でも吐き出せない やるせない気持ちを呟くことで、自分はこんなにも苦しいんだということを発信することに快感を覚えていた。当時はとにかく苦しかった。
同調のようなものかもしれないが、タイムラインに流れてくるリスカの写真や大量のブロンの写真を見て、私もやってみたいという気持ちが湧き上がった。後先考えずいろんなことをやらかしてしまった。
そんな日々を送っていた私が絶好調に病んでいた時期の話をしたいと思います。
テレビで連日 傷ましい殺人のニュースが流れていた時期でした。普段から何かとストレスを感じているような性格だった私は、いつもギリギリのラインで生きていたように思います。そのラインから足を踏み外してしまったかのようにそのニュースを知ってから精神が崩壊してしまいました。
「あぁ。真面目に生きている人がなんで見知らぬ人に突然殺されなくちゃいけないんだ。その家族は、その子供は、その両親は、何に怒りをぶつければいいんだ。誰かにぶつけたところで、殺された人は戻ってこない。神様はなんでこの人を、このような形で、この世から消さなくちゃいけなかったのだろう。」
「なんで自分は殺されないんだろう。殺されたくない。殺さないで欲しい。でもなんでこんな殺されることに恐怖心を抱いているんだろう。」
ちょうどその事件の起きた現場が、最寄り駅の近くだった。だからなのかもしれないが、無意識に自分と亡くなった方を照らし合わせていた。
また別の話だが、知り合いとまではいえないが小さい頃からなんとなく知っていた人が自殺した。かなり事件性のあるものだった。遺族のブログを読んで、この事件の生々しさを非常に身近に感じたのだ。
人の命について、神様について、気づけばよく考えていた。仏教やキリスト教、今まで倫理や世界史で習ったことを思い出していた。
そしたらパニックになった。話がむちゃくちゃ飛んだように思われるかもしれないが、実際本当にこんな感じだった。四時間目の音楽の授業の後、何を思ったか私は学校にある相談室に駆け込んだ。ノックもしないで、あの時相談室に先約の人がいたらどうなっていたか。。たまたま居なくて良かったが、、相談室の先生を見るなり、私はその場で泣き崩れた。先生怖くなりました。助けて欲しいです。てずっとずっと言っていた。殺されたりしない、安全な空間に居たい。この学校の中で一番人を殺さない人は、きっと心の専門家のスクールカウンセラーだけと思った。
昼休みだけどころか、ずっと泣いていた。ばかみたいにずっと泣いていた。先生に今怖くなってしまったことを全部話し、「いやぁ自分おかしいですよね、すみません五時間目授業出ます、」ってなんどもなんども言いながらひたすら泣いていた。でも気づいたら六時間目の終わりまで泣いていた。
先生はひたすら、大丈夫だよ、大丈夫だよと話を聞いてくれた。保健室の先生も来てくれて、両親に電話をかけてくれて、私は早退することになった。
電車に乗ってる時に、我に帰った。家に早く帰してくれたけれど、明日から何の面下げて学校に行けばいいんだろう、クラスに行きたくない、誰かに殺されるかもしれない、もうみんなと授業受けたくない、クラスの誰かの恨みを買っていたらどうしよう。殺される。と。
家に帰ると母親は私をとても心配してくれた。18になって、何年振りかに母親にギュってされた。私はほんとどうしようもないやつだなと思った。抱っこされた母親の体に包まれている私の手には、自ら作った無数の傷跡、心底自分が嫌になった。せっかく綺麗に産んでくれたのに。
次の日私は高熱を出した。38度くらい出て、喘息になった。その時期くらいからかまともに食事も取れなくなっていて、それも相まってかなかなか調子が戻らなかった。合計一週間くらい休んだ。
風邪が治らない、学校にいけない、クラスに行きたくない、だけど授業に遅れたくない、でももう今更いけないや。というようなどうしようもない気持ちでいっぱいになり、毎日毎日泣いていた。
この後から、私の闘病が始まります。絶対書きたいことなので、次のブログで丁寧に書きます。
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