それは、希死念慮ではありません
わたしは、あぁ〜死にたいな〜と、割と常に思う。
例えば、感動もののドラマや映画、ドキュメンタリーを見た時。休日に何もせずずっとベッドにいた時。
世の人が聞いたら少し驚く発言かもしれないが、これはわたしにとって、決して希死念慮ではない。
よく人は、“やり残したことがあるから死ねない”と言うが、わたしには理解できない。
やり残したこと、やってみたいことなど底無く山ほどあり、何年何十年経とうとも尽きないから。やり残さない方法なんて無いのだと思っている。それなら、いつ死んでも同じだろう。
また人は、“大切な人達がいるから死ねない”とも言う。わたしには少し、理解できない。
自分が大切だと思っている人達にとって、わたしなど結局はワンオブゼムでしかない。薄情だ、と言われるかもしれないけれど、わたしがいなくなったとしても1ヶ月もすれば悲しみは落ち着き、1年もすれば命日に思い出す程度になり、いずれわたしの代わりのような人ときっと出会う。
ここまで割り切っていて、なぜわたしは行動に移さないのか。
1つは両親の存在であり、もしかして、もしかすると、両親にとってはわたしもオンリーワンなのかもしれない、と心の片隅で思っているから。
もう1つは、単純に死ぬのが面倒くさいから。痛いのは嫌いだし、下手に救命されても困るのだ。
人生に希望など持っていないし、別に死ねないほどやり残したことはない。早く死んでみたいな〜、そうしたら楽なんだろうな〜と思うが、皮肉にも「君は長生きしそうだね」と言われてしまうのが、わたしだ。
生きる意味とは、果たして何なんだろうか。
死に対して恐れが無いからこそ、わたしには“どうして生きているのか”という理由付け、自分の存在価値を見出すことが大事になってくる。
そうしないと、早く死んでしまいたいという焦燥感に負けてしまう。
正直、地元で呑気に学生をしていた頃は、何も考えず悩まず時の流れに身を任せて生きていたし、何ならこれからの自分はどうなっていくんだろうと将来に希望を持っていたりした。
それなのにいつからか。“わたしは何のために、どうして生きているんだろう。生きていて何のメリットがあるんだろう。”と、生きることに対する意味を考えるようになってしまった。
大学を卒業する頃には、看護師になったわたしは生きる意味を見つけて、誰かのために生きているかもしれない。そんなちっぽけな期待を抱いていたりした。そんなもの、見事に打ち砕かれているわけだけれど。
答えは、20数年かけてみてもわかっていない。
しかも、タチの悪いことに、わたしは自分に対するハードルが高すぎる。自信過剰なわけではないのだけれど、自分がこんなにしょうもない人間のはずがないと期待してしまって、どうしてこんなこともできないんだろうと思うことが多々ある。
そうやってまた、生きる意味を考えてしまうのだ。
わたしだって、週末の友達との旅行が楽しみだから。明日の仕事終わりに美味しいお寿司を食べに行くから。推しのコンサートに1回は行ってみたいから。好きな人と結婚して家族をつくりたいから。
そんな理由で、生きてみたい。
早く明確な納得できる答えを見つけて、その答えのために生きていけたらいいのに。そうすれば、こんなに毎日考えることに苦しまなくていいのに。そう思うが、残念ながら答えなど見つからないんだろうなと、既にわかっている。
死ねたら楽だろうなと思っているだけで、死にたいと願っているわけではないし、行動に移したことも、計画を立てたこともない。この気持ちはわたしにとって精神的な乱れではなく、思考を拗らせた結果生まれたものだから。それに、きっと、今のわたしに、自ら命を断つことはできない。だから、希死念慮ではないのだ。
生きる意味を、自分の存在価値を、これから何十年毎日考えること。その過程で得られる感情や環境を、すいもあまいも噛み分けること。これがわたしの、これから生きていく理由で。あれだこれだと細かく理由付けをして、自分を納得させて生きていけと、そんな試練を与えられているのかもしれない。
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