15. 『掏摸』の良心

 いつのまにかとんでもなく高い場所に来ていて足がすくむ、という夢をたまに見る。小さな足場しかない塔のてっぺんだったり、高層ビルの外壁にある少しの段差だったりする。お腹の底が冷たくなり、足の力が抜けていく。しかしどこかで奇妙な安心感を覚えてしまう夢である。
 中村文則の『掏摸』を読んだときの感覚は、このタイプの夢を見ている時の感覚ととても近かった。
 『遮光』と『何もかもが憂鬱な夜に』を読み、もともと好きな作家だったが、趣味の合う知人に薦められて『掏摸』を手に取った。「優しさや善意というよりは、もっと本能に近い、反射のような良心を信じていて、それが人間の最後の砦だと思っている」というような話をしていた。性善説はあまり信じていないが、どんな悪人でも川底に魚影が閃くように、ふと利他的な動きをする瞬間を信じている。それなら『掏摸』をぜひ読んでほしいとだけ、その人は答えた。
 果たして『掏摸』における良心が、自分の信じているものと同じかどうかは今でもはっきり分からない。疾走感と痛みと緊張の連続で、ぬかるみに落ちていく生温かい感触があり、強く光る瞬間があった。息継ぎも忘れて一気読みしたのは久々だった。
 文字通りスリの主人公が運命と対峙する物語である。こんな風に書くといかにも味気ないが、ネタバレ容認派の私であってもあの本は前情報なしに読むほうが良いと思う。ぜひご一読。アオリ文が例にもよって酷いが、見なかったことにして剥いでしまえば問題ない。
 主人公も木崎も悪人ではなかったように思う。無論、あの万引き親子もごくごく普通の人間である。魔が差し放題だが、ああいう生き方を選ばされれば誰だってああなる。善人も悪人もおらず、ただ高い鉄塔がそびえている。
 主人公が万引き親子を助けてしまったのは、彼の人生の中では悪手になるのかもしれない。孤独を感じたときに、さらに敵意を振りまき周囲を遠ざけるか、善意の安売りをするか。彼は後者を選んだために主人公となり、木崎に絡めとられる。物語を見守る私たちは、きっと木崎に近い。悪に染まるには善の心を忘れないことだ、と木崎は語る。主人公の行く末を案じ、薄汚い少年に同情しながら展開を楽しむ私たちも彼と大差ないはずである。凄惨な事件のドキュメンタリーを純粋に楽しむ人間が滅多にいないのと同じである。
 どんな人間であれ、魔が差すのと同じように良い行いをしてしまうし、同情してしまう。それが大きなドミノ倒しのようになって運命を引っ掻き回してしまうとしても。人間の(あるいは知能のある生き物の)どうしようもなく美しい一面である。私たちにはみんな神が差す。

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