青春と成人
そうか、もう新成人は十八歳なのか。
他人のnoteを見て初めてその事実が現実味を帯びた。実際、私のように既に二十歳で成人を迎えていて子どもがいるわけでもない人間はずっと現実味のない話としてトピックがぎりぎり輪郭を保ったまま漂っているだろう。
十八歳なんて、子どもだ。まだまだ青臭いガキンチョだ。
もっと言ってしまえば二十歳だって子どもだし、二十一の私だって子どもだ。年末は両親と回転ずしに言ってたらふくお寿司を食べたし、正月にはなんとお年玉まで貰えた。もはや情けなくなるくらいには超子どもじゃないか。
この世に、大人なんて存在は居るのだろうか?
誰かが責任を負わなきゃいけないから、責任の所在として、半ば嫌味のような偶像崇拝の一種として、大人という存在が構築されたのではないか。それならそんな存在はもう、言わば殆ど架空の生命体だ。
年齢がなんだ。そんなもの何の指標にもならない。何歳になったって勉強する人間は勉強するし、学ばない奴は学ばない。
十八歳なんて、まだ高校生でしょう?と心の中で呟く。
大人、なんていう陳腐な言葉で、枠組みで、青春に覆いかぶさってはいけないだろう。
青春という言葉がどうしてかこんな爽やかに自由に響いてしまうのは何故だろうか。
過ぎ去ってしまったような錯覚の中、それはとても自由だったように見える。
刻一刻と春は近づいてきているらしい。
私にはまだわからない。
光はずっと、冬のままだ。
冬の、バターみたいな薄黄色。杏みたいな橙。
私はずっと、子どものままだ。
未熟で、蕾のまま、
何も知らず花咲く美しさに見惚れて
自由を望む美しさを手に
世界は今日も空の青さを想う