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【雑記】写真の価値

まずはこちらをご覧いただきたい。

レンズ1本でおよそ9万円。これを見て、あなたは高いと感じたであろうか。それとも値段相応であるといった印象であろうか。

フルサイズ機対応、開放F1.4の単焦点。開放では周辺の解像度がやや落ちるものの、比較的収差は少なく機能面からすれば適正価格ではないかと思う。


続いてこちら。

20粒で8800円!一粒当たり440円もする。。さぞかし口に入れた瞬間に、とろけるような上品な甘さのブドウなのであろう。


カメラのレンズはおおよそ9万円であるにも関わらず、一般的な価格(やや安い方)という印象を持つのに対して、マスカットはレンズのおおよそ1/10の価格であるにも関わらず、ものすごく高い印象を持つ。

これは、物事の価値とは相対的な評価によって判断されているからである。高級機材と比較すればこのレンズは安いと判断する一方で、一般的に食するマスカットと比べると非常に高いと判断しているからにほかならない。

一方、写真(カメラ)に興味がない人からすれば、たかがレンズに9万円も払うだなんて馬鹿げていると感じるであろう。また、普段からもっと高級なフルーツを食している人からすれば、マスカットで9千円程度は安い方に分類されるのかもしれない。


一般的な感覚として、写真を撮るためにはカメラやレンズといった工業機器が必要となる。写真の出来栄えを比較する際、安いレンズよりも高性能なレンズの方が重宝されるのは、価格相応の「写真」が撮れると信じられているからである。

しかし、レンズの価格や性能によらず、シャッターを押しさえすれば写真が「撮れる」。いまや「写る」というべきなのかもしれない。なぜなら、写真には心情や感情といった心理的なイメージは表象されないからである。実世界に存在する情景を、カメラやレンズを通してアルゴリズム的に平面的な情報に変換され、写真世界のイメージが生成されるのみである。

写真をみたときになにかを感じるのは、写真を通じて記憶が呼び起こされ、記憶の断片と写真のイメージとが整合したとき、写真に感情移入することによってもたらされる、擬似的な「体験」なのだ。


また、一般的に写真は「良い写真」や「悪い写真」といったように、曖昧かつ感覚的な価値基準によって判断される。この曖昧な「良い写真」という評価を、もう少し掘り下げるとするのであれば、それは「あなたにとっての良い写真」となる。

つまり、あなたにとっての良い写真がどのような写真であるかが明確にできれば、写真はもっと良いものになる、はずである。


たとえば、カメラ雑誌などのコンテストに掲載されるような写真が「良い写真」であると捉えているのであれば、掲載されているような写真を真似て練習すればよい。練習していれば、やがてそのような写真が撮れるようになる、かもしれない。

どの機材を使って、なにを写して、どのように切り取ったのか。こうした機械的(技術的)な良し悪しで写真を判断し合える仲間はきっと大勢いるので、目標とする「良い写真」が撮れるように鍛錬していけばよい。

写真家や評論家などの先生といった、第三者に褒めてもらえるような写真が「良い写真」であるとするならば、選評者のフィールドの写真を突き詰めていけばよい。選評者の守備範囲外の写真に対しては、そもそもその写真を批評する情報が欠けている可能性が高い。ポートレート専門の先生に、鉄道写真をみせたところで、表層的な構図や色調といった被写体そのものの良し悪しでしか、批評することはできないのだから。写真クラブなどで生徒の写真がどれも似たり寄ったりするのは、こうした理由が大きい。

とりわけ日本のポートフォリオレビューで、話題の中心が撮り方や構図といった表層的な内容に偏っていれば、それ以上の情報は出てこない。聞く相手を間違っているのだから。


なにかを想起させるような写真が「良い写真」であると捉えているのであれば、言葉を鍛錬すればよい。写真というメディアは思いを伝達するには不得手な表現方法である。

たとえば、とあるポートレート写真をみたとしよう。タイトルは「17歳」。この写真をみた鑑賞者は、この写真に写された人物が17歳であると認識するであろう。

一方で、同様の写真でタイトルを「2003-2020」としたとしよう。すると、ここに写された人物はもうすでに亡くなっており、かつてこの人物が「存在した」ことの証明としての意味を、写真が持つようになると、鑑賞者が想像するかもしれない。

このとき、写真の価値は上手い下手といった写されたものの表面的な評価基準から、写真を通じて繰り広げられる「対話」によって形成される価値へと移行する。

撮影者が自身の写真について語ることによっても、写真の持つ印象を操作することが可能である。


しかし、たとえ写真が下手であったとしても、ものすごく高額な写真も存在している。こうした写真の価値は「良い」「悪い」や「上手」「下手」といった、写真の出来栄えや感覚的な尺度によって写真の良し悪しが判断されている訳ではないからである。

こうした内容に言及するのは、日本において「写真」が広義なものとして扱われているからにほかならない。アマチュアからプロカメラマン、商業写真からアート分野における写真にいたるまで、ありとあらゆる写真的な表現はもれなく「写真」としてみなされているからである。

そのため、写真の価値とはその人自身や第三者の価値基準によって判断されて然るべきである。

趣味で撮っているのであれば、自身が満足する「写真」が「良い写真」。
商業写真であれば、顧客が満足するクオリティーを担保できてさえいれば、それが「良い写真」。
メディアとしての写真であれば、鑑賞者が写真を通じて何かを感じてくれるような写真が「良い写真」(といえるのであろうか)。

アートであれば、過去(写真史、美術史など)の作品と比較したうえで、オリジナリティ性がある写真が評価の対象となる。ただし、オリジナリティは表層的な目新しさだけではなく、独自の視点やアイデア・コンセプトなどが前衛的であるかどうかも重要なポイントである。これが、現代アート分野における写真がわからないといわれる最大の難点である。すなわち、アート分野においては鑑賞者自身におけるアートのコンテクストの理解度によって判断されるものであるにも関わらず、アートの文脈とは異なる一般的な写真の価値基準と同様の尺度で評価しようとするがあまり、その写真の的確な評価が行えていないためである。

人間は物事を相対的にしか判断することはできない。もし判断するための情報(記憶)が不足していたとき、人間はもっとも似通った情報との擦り合わせを行うことによって、そのものが何であるかを「理解しようとする」のである。


写真を始めたころには夢中で撮っていたものの、いつしか壁にぶち当たる。私はこれを「写真病」と呼んではいるが、なにを撮ったらいいのかわからない、どのように撮れば上達するのかといった「行為としての写真」から、理由や意味、目的のように、どうすれば撮った写真を相手に伝えることができるのかといった「思考としての写真」へとシフトしていく過程で生じる、ある種「病的」な症状を発症する。

しかもこの病気に対して効果的な特効薬は存在せず、自身でその答えを見つけるほか、回復する見込みはない。写真を止めてしまう理由として、金銭的な問題よりもこうした心理的な問題の方が上位にくるのではないか、と個人的には思っている。

私もかつて写真専門学校時代(おおよそ10年前)には、常にこの病を患い、なぜこんな思いをしながらも写真を撮っているのだろう、と自問自答の日々を過ごしていた。

それは、根本的な「写真とはなにか」という問いに対して、一般解を導き出そうとしていたからにほかならない。知れば知るほど、撮れば撮るほど、傷口は開いていくばかりであった。しかも、この問いに明確な「正解」は存在しないのである。

実のところ、この問いで真に問われているのは『あなたにとって「写真」とは、どのようなものを「写真」として捉えているのか』ということである。このことに行き着くまで随分と時間を要した気がする。

つまり、一般解ではなく自身が考える「写真」のイメージを、「写真」として形にすることができれば、それが「あなたにとって」の「良い写真」であるはずである。その写真の価値は、あなた自身が決めるのだ。

一方で、コンテスト等であれば、選評者が選出した写真が「良い写真」なのであって、必ずしもあなたが「良い」と考える写真のイメージと乖離していることは重々にあり得る。そのため、なぜAの写真がよくて、Bの写真がダメなのだという比較評価を行ってしまいがちではあるが、そもそもの「良い」基準が人によって異なるのだから、どちらが良い悪いという判断自体が間違っている。


なお、アート分野においては、作品の価値はすでにアート市場に流通している作品の価値と比較することによって、その写真の相対的な価値が決定される。わかりやすいのは作品の販売価格である。ただし、レンタルギャラリーなどで個人的に販売されている高額な作品においては、将来的な資産価値はほぼないといっても過言ではない。なぜならこうした写真は市場と比較した相対価格ではなく、「言い値」で決められたものだからである。客観的な価値基準が定まってはいないものが、将来的に価格が上昇することはない。

アート作品は資本主義社会における資産価値のある「商品」である。つまり、需要と供給によって成り立つことを忘れてはならない。

「写真の価値」と一言でいったとしても、その人の「価値」の捉え方によって、写真そのものの価値もまた大きく変容する。

目指すべき写真はどの方向にある写真なのか。まずはそのベクトルを定めることができれば、おのずと写真との付き合い方も明確になっていくと思う。




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