小さいけれど、確かにある声
今月末には、衆院選挙がありますね。
街を歩くと、選挙カーや選挙ポスター、街頭演説の風景を見かけるようになりました。
各メディアでも今度の選挙に関する報道がなされるようになりました。
先日のNHK情報番組「あさイチ」で、選挙に行く人、行かない人、なぜ行くのか(あるいはなぜ行かないのか)インタビューしている様子がありました。
行く人へのインタビューでは、
「選挙に行っていないのでは、政治に対して文句を言えないから」
「若者は選挙に行きなさいと祖父に言われたから」
「当然の権利だから」 などという意見があった一方で、
行かない人へのインタビューでは、
「仕事が忙しいから」
「自分が投票しようがしまいが、この社会は変わらないのではないか」
「日本は平和だし、安全だし、何も困ることはないから」
「半強制だったら行くかもしれない」 などの意見がありました。
私はこのインタビューの様子を、興味深く見ていました。
投票は国民の権利であるから、「選挙へ行った方がいい」「行くべきだ」という声が圧倒的で、私自身も、暮らしが社会情勢と密接につながっていることを実感しているから、投票に行く予定にしています。
だけれども、投票に行かない人を安易に責めることはできないな、とも思うのです。
ここでは、「自分が投票しようがしまいが、この社会は変わらないのではないか」という意見を紐解いて考えたいと思います。
「自分が投票しようがしまいが、この社会は変わらないのではないか」
こんなふうに思っている人、多いのではないでしょうか。
いま、小中学校、高校では、社会科や総合的な学習の時間、探究の時間、特別活動の時間において、ディベートや模擬選挙などの機会が増えているようです。
私は今年の春まで大学院生だったのですが、2年間、社会科の研究室に所属していました。同じ研究室の中には、選挙をテーマに授業研究をしている人もいました。
それでも、投票率は上がらず、
選挙に、というか、政治に対して無関心な人が多い。
それはどうしてなのでしょうか。
例えば、幼い頃。
大人が良かれと思って、「これよさそうじゃない?あなた、きっと好きだと思うよ」と提案し、子どもの選択の機会をほとんど無意識のうちに奪ってしまっている可能性がなかったかどうか。
子どもは、お母さんをはじめとする、身近な大好きな人の笑顔が見たい。笑ってほしいと思っている。
だから、子どもなりに「小さな違和感」を感じたとしても、蓋をしてしまうことが多いような気がしています。
(「イヤイヤ期」の場合、あれもイヤ!これもイヤ!になっていることもありますが、、そんなふうに「イヤ!」のセンサーが働いていることは、よき傾向だなと思えるようにしたいものです)
だからこそ、長い時間をかけて、誰かが決めた「正しさ」を自分の「正しさ」であると刷り込みが入ってしまい、失敗を極端に恐れてしまう人になってしまいかねない。
あるいは、学校に行き始めた頃。
学級会などで、お楽しみ会にすることを決める際、限られた時間の中で、どうやったらみんなが楽しめるような会になるのかを子どもたち同士で話し合う場面が思い出されます。
たくさんのやりたい遊びが出てくるけれども、結局は多数決になり、声の大きい人の意見が通ってしまう。
(経験上、この時先生は、宿題の丸つけや連絡帳チェックをしていることが多いため、子どもたちの中にある小さな「無力感」に気づかない。気づいたとしても、素通りしてしまう。当時は目の前の仕事をこなすことに必死だったので、センサーがはたらかなかった。今だったら、変わっていたかもしれない)
自分の声が届く、聞いてもらえるという体験を奪ってしまったのは誰か
無力感を与えてしまったのは誰なのか
そのことを、もう一度考えたい。
いまは、SNS を駆使した人、知名度のある人がもてはやされやすい。声が大きいから、正しいことを言っているように錯覚してしまうかもしれません。
だけど、「良いニュースは、小さな声で語られる」と村上春樹氏も言っているように、小さいけれど、確かにある声は、時間がかかったとしても、いつかきっと届く。
あなたがいま投票することによって、すぐにこの社会は変化しないかもしれない。だけど、小さな声は、なかったことにはならないし、決してなかったことにしてはいけない。
良い方向へと、じわじわと変化していくことを信じて、今日も私たちは生きていく。
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