阿呆の心理
阿呆はいつも彼以外の人人を悉(ことごと)く阿呆と考えている。
芥川龍之介「侏儒の言葉」より
SNS社会には、自分が阿呆だということを見失ってしまう何らかの仕組みがあるのかもしれないと感じる今日この頃。
最初は単なる不平不満をSNSに書き込んでいた人や、自分とは違う意見に反論していた人が、いつのまにやら世直しネットパトロールに時間を割くようになり、やがて、届くはずもない相手や力が及ぶはずもないネット上の見知らぬ相手にも自身で天誅を加えられるような気持になる。
しかし、ネット上でどんな発言をしても、自分が思っていることが相手に届かないので、自分の中で相手に対する他罰的な感情はますます高まり、過激な発言者へと変貌していく。
そして、過激な発言には賛否のコメントが返ってきやすいので、そこに快楽を感じ、発言の過激さは徐々にエスカレートしていく。
賛成や称賛のコメントには安心を抱いたり、あるいは承認欲求が満たされたりする。そうなると、もっと過激な表現で書きたくなるだろう。
一方で、過激な意見に対する否定的な意見の多くには、内容に対する否定にくわえて、人格を否定する攻撃的な意見も付加されやすい。人格を否定されると、否定した相手に対してさらに過激で攻撃的なことを書きたくなるだろう。
どんなに必死になっても、相手は意見や気持ちが「届かぬ人」である。むしろ、SNS上の知らない相手は「人」ですらない、単なる「テキスト」でしかない。テキストを相手に自分の中でネガティブな妄想だけが大きく膨らんでいく。
自分が阿呆であることに気づくためにはメタ認知が必要だ。メタとは高次のという意味で、自分の斜め上45度くらいから自分をじっくりと観察し、諫言・意見具申してくれるもうひとりの高次なる自分が必要なのだ。
どうやら、このメタ認知を見失うことがネット社会に犯されて阿呆になる前提のような気がしてならない。
芥川龍之介のエッセイ「朱儒の言葉」からインスピレーションを受けて。