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願うことは
去年の手帳をめくる。石田千さんは朝起きてラジオとストーブをつけると、顔も洗わず机にむかう。毎日三枚書くそうだ。
こんな朝をつづけて、ちっとも飽きない。
冬子は朝起きてエアコンをつけると、湯をわかし紅茶かコーヒーを淹れる。本を読む。紅茶はなにもいれずに飲み、半分くらいになったら豆乳をいれ温めなおして飲む。思いだしたことを書く。コーヒーを淹れる。また読む。一日のなかでいちばん好きな時間だ。
ほしいものも、行きたいところも、会いたい人も、ここにはもうなんにもないの。
知佐子さんは飽きてしまったひとだ。生きることに。あらゆる欲がなくなるとはどういうかんじなのだろう。
冬子は欲のひとつ、食欲について考える。なんにも食べたくない日がやってくると、その日はその声にしたがうままにする。
おなかがとてもすいてくると身体の内が燃焼し始める。すけばすくほど内にあるものの輪郭がくっきり立ちあがってくるようだ。まだまだ知らない自分の身体がある。
そうしてすっかり空腹になってから食べるごはんのおいしさに目をみはる。いつもの何倍にもおいしく感じられる。食べすぎなことを日々忘れている。
あとは読むこと書くこと歩くことができれば充分だった。
新年から読みはじめたジュンパ・ラヒリ『べつの言葉で』は、彼女の生活とは無関係な言語、イタリア語への情熱が書かれている。
冬子は日本語のほかに興味のある言語が思いつかない。でもずっと長い間、もうひとつあるといいような気がしている。
これが本来の姿であろう賑々しい駅まわりで、冬子はすれちがう外国人の会話を拾おうとする。英語ではなかった、ということだけわかる。
新しい年になると人々は毎年飽きずに目標をたてたり、やりたいことを発言する。冬子はそれらを見聞きするのが嫌いではない。なぜだろうと思う。
わたしは死にたくない。死ぬことは言葉の発見の終わりを意味するわけだから。毎日覚えるべき新しい単語があるだろうから。
ジュンパ・ラヒリのイタリア語をもっと知りたいという欲求や人々の今年やりたいこと。生きる力のようなものに惹かれているのだろうか。
と同時に、死を見つめる気持ちも知りたい、わかりたいと思う。
まだ読み途中の『べつの言葉で』にはびっしりと付箋がつけられている。知りたいことや気になることがたくさんあるのは一目瞭然だった。重なって読みづらくなっている神社の絵馬や七夕の短冊を思う。〇〇へ行けますように。〇〇さんと会えますように。願うことは自分がなにもできないことを知り、それでもなにかできるかもしれない、と思うことだった。