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黄色い袋

黄色や赤、緑や茶色の葉のうえを歩いている。今朝つよい雨風があった。晴れはじめると、駅から家のあいだにある観光名所への道は、みるみるひとに覆われていく。

今日は特に小学生のグループが多い。たいがいかれらは鳩の絵のついた黄色い袋を持っている。かならずと言っていいほど、グループの中に坂道を走る子がいる。のぼりはいいが、くだりはとても見てられない。冬子が電動自転車でのぼるたびに、すげー、と何回もいわれたたいへん傾斜のきつい坂だ。

小学生たちにはさまれながら、冬子の前を三人の年配の女性が歩いている。追い越しながら、なにかを飲まされたり、注射されたりしたことが耳に入る。三人のうちのひとりが母と同じ生まれ年なのが聞こえる。十分に距離をとってから、ゆっくり振りかえった。やっぱり母さんは若く見えるよ、今度忘れずに言おうと思った。

松家仁之『光の犬』はひとりひとりを淡々と描く群像劇だ。若くして亡くなる歩の話と、となりに住むふたりのおばの認知症の話が印象に残る。歩の病が冬子の母と同じ病だったこと、このさき父や母にも認知症の訪れる可能性があること。ある一族の物語の時間は、波のようにいったりきたりしている。ひとりひとりの波間には、うつくしい石やかがやく貝がらもあったが冬子は拾わなかった。いま必要なものをそっと手のひらに包んだ。

『光の犬』の舞台は前に読んだ『沈むフランシス』と同じ場所のようだ。いつか行ってみたいと思いは募ったが、枝留は架空の場所だった。モデルとなった場所はあるらしい。冬子はしばらくのあいだ、答えあわせをするつもりはなかった。

母が通いはじめた病院に冬子はまだ一度も行けていない。先日も行くつもりが、前日に発熱した。数日前に百閒が遊びにきたとき、おなかがさいきん変だからと、おやつを食べずに帰る日があった。夏子と晴も発熱していたことが後日わかる。わたしたちは去年よりも風邪に抗えなくなっていた。

秋はいちばん好きな季節だ。カサカサと落葉を踏みながら歩くだけで楽しい。健やかに生きたいとどれほど願っても、病気になったり、今までできたことができなくなったり、思いだせなくなったりする。父や母、物語のことはいつか自分にも起こりうる。父や母というのは、最後までなにかを教えてくれる存在なのかもしれない。自分にも起こりうること、と以前よりも温度をもって感じられることに冬子は救われるようだった。








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