小川洋子「刺繍する少女」
引用は小川洋子「刺繍する少女」(『刺繍する少女』(株式会社KADOKAWA 1999年8月))に拠る。
〈あらすじ〉
今回は、前にこの作品について発表した内容を改めて整理する機会があったので、ちゃんと大真面目に書いたその内容を下に納めつつ、小川洋子さんのお話が好きな話を少し。
小川さんの作品は何回か読んだことがあったけれど、本当に衝撃を受けたのは「薬指の標本」。(これについてもいつか書きたいな)。小川さんが描き出す世界にはいつも人間のあたたかさ、そして少しのこわさが静かに横たわっている。「静」という言葉がこれほどあう文章はないんじゃないかな。あと、2文前の「人間のあたたかさ」と書いている所、はじめは「人間のやさしさ」と書いていた。でも消した。それは、小川さんの作品は「やさしくてやさしくない」と思うから。
もう少しかみ砕くと、小川さんの作品には生と死の問題も常に潜んでいて、読んでいると自分の人生について絶対に一度は振りかえることになる。そしてその時に小川さんの作品はいつでも私にこう呼びかける。「生きていいんだよ、でも死んでもいいんだよ」。だから「やさしくてやさしくない」。小川作品における生と死の問題については沢山の研究がされていて、私はまだ全然それについて勉強できていないから、主観で語っている部分が大きい。でも、小川作品を一度でも読んだことのある人は、みんなこう感じたことがあるんじゃないかと思う。わたしはこの「やさしくてやさしくない」という点が、人間として非常に信頼できるし、誠実だな、と思う。
「刺繍する少女」についても「生と死」の問題に触れられていて、主人公と関わっている少女はやっぱり「やさしくてやさしくない」。でも「生と死」にすごく真正面から向き合っている人物だと、この話を読めばわかる。いつか自分が死ぬときには、どの小川作品を思い出すのかな。ちょっと楽しみ。(暫定は『猫を抱いて象と泳ぐ』かな)
はじめに
「刺繍する少女」は、『野性時代』の平成6年11月号から平成7年8月号にかけて連載された、小川洋子の「記憶」に関連する作品としては初期のものである。先行論の数は多くなく、また、本作品についての直接的な作家言説もないが、「生と死」そして「言葉」に関連して次のような小川の言及がある。
小川洋子は、「生きている世界」と「死んでいる世界」の中間でさまよう人間がそこから先に進むためには「言葉」をもちいる必要がある、と述べている。実際、本テクストと同様に『刺繍する少女』(株式会社KADOKAWA 1999年8月)に掲載されている「第三火曜日の発作」でも喘息を患った少女が登場するが、彼女も自分の症状に関する体験記をあらゆる人物に成りすまして「書く」ことで、死についての想像力を働かせ自身の症状と向き合っている節がある。しかしながら、本テクストにおいて少女が取り組んでいるのは「刺繍」なのである。そして、この「刺繍」そのものの役割について触れた先行論はなかった。したがって「刺繍」が「言葉」に成り代わって死に向き合う際にどのような役割を果たしているのか、考察の余地があると思う。
1 開かれた身体と閉ざされた身体
この資料からわかるのはまず、病に侵された身体には、「開かれた身体」と「閉ざされた身体」があるということである。開かれた身体とは、病む人が自らの痛みによって他者の痛みを理解すると同時に、病む人が「語る」ことによって、他者にもその痛みを理解してもらい、互いに痛みを共有する状態を示す。一方で閉ざされた身体とは、痛みは当事者個人のものとして受け止め、孤立したものとして理解している状態を示す。
ここでテクストを見てみると、「僕たちに用意されていた部屋」p.7「僕たちはすぐにここでの生活に慣れた。//痛み止めの注射をしてもらっている時以外は、入院していることさえ忘れそうだった。」p.8-9 というように、がんを患い、入院しているのは母だけであるはずなのに、僕の語りでは「僕」も患者として入院しているかのような描写がみられる。つまり、僕と母とは開かれた身体であるということができる。
一方で「僕といる時に発作は一度も起きなかった」p.13 という表現からわかるように、僕は「彼女」が喘息の症状で苦しんでいるところを見たことがない。したがって、現時点で「彼女」は閉ざされた身体「であるように思われる」。
そして、現代医学は閉ざされた身体の成立を促す。これにより患者同士の接触の多くは最小限度かつ一時的なものになり、病の「語り」による病の共有(分有)は行われず、患者の孤独は進んでいく一方なのである。
これらのことから、僕(と母)は病、そして死の痛みを分有し向き合うことができており、「彼女」はできていないという仮定をすることができる。しかしながらテクスト内ではそのような展開にはなっていない。それはなぜなのか、そして僕に行われた真のケアとは何なのか。
2 刺繍によるケアⅠ ——夢を通じて僕がみるもの——
前章で開かれた身体に該当すると考えられた僕は、母親のケアをしながら彼女との日常を過ごしている間、引用部からわかる通り死から目をそむけ、また死の瞬間がどういう風に訪れるのか想像ができておらず不安を抱えている。母親とともに開かれた身体である僕が、このように死の不安にさらされているのはなぜなのか。それは開かれた身体によってケアされているのはあくまでも病んでいる本人(=母)であり、ケアする側の僕は、半ば無理やり開かれた身体にさせられたという「ケアの暴力性」に晒されたからではないかと考えられる。一方で閉じられた身体である彼女の方は「「死に塗りこめられてなんかいないわ。ここは通り道なのよ。あちらへ行く人と、こちらへ戻って来る人のね」」p.24というように、ホスピスが生死の中間地点であるということについて把握し、死への理解を深めているように思われる。
ここでテクスト中に描かれる「夢」について確認する。
この資料で言及されている「夢の文法」とは、夢の中で「きれいときたない」「大きいと小さい」というような相対するものが同じ言葉で語られたり、時間が逆流したりすることを指す。「夢の文法」が存在するのは、人間が「まだ人間ではない状態」と「人間になった状態」を定期的に行き来することで自らを人間としてそのつど再構築するという方法を採用したからであり、それにより人間は自己とは何かを認知しているのである。
僕はテクスト中で夢を見るが、それは1つ目の引用からわかる通り、現実との境界が非常にあいまいなものであり、また2つ目の引用を見ると、夢の中に登場する彼女は大人か子どもか曖昧なものとして認識されている。つまり僕はこの彼女が「大人か子どもか」曖昧な夢を見ることで、「夢の文法」に則り自己の再認識をはかっているのである。
そして彼女がいつも行っている「刺繍」にも注目する。彼女は僕が過去にD高原で出会った時にも、ホスピスで会った時にも、夢の中でも刺繍をしている。そして刺繍をする女性から連想されるものの一つとして、「紡ぎ女」が挙げられる。
おとぎ話や神話の中で登場する紡ぎ女は、運命のもたらし手として登場する人物であり、「紡ぎ女」が対象に対して見せる運命は対象を全肯定するものである。そして紡ぎ女は、実際の母親の像として登場したり、実際の母親とは分離された、知的なあらかじめ形作られた無意識、神性の女性的側面として認識されたりする。避けられぬ運命のもたらし手である紡ぎ女(乃至それを模倣する母親)は、全肯定的かつ希望的な運命を子どもに示すことで、子供の成長を促すのである。さらに、われわれが紡ぎ女と接する領域は無意識、すなわち夢の中なのである。
そして、眠りと関連性の高い紡ぎ女としていばら姫(別称眠り姫等)に出てくる魔女を挙げられよう。彼女はいばら姫に対してよき物を贈る母の性格をもち(誕生の贈り物)、他方、価値あるものとして創造したすべてを手の平を返したように破壊し(紡錘に刺されるという死の予告)、破壊の作用をもう一度和らげる(100年の眠りにおちそれから目覚める)。
これらのことから、テクスト中の彼女は「いばら姫」における紡ぎ女の役割を付与されているといえるのではないか。なぜなら、彼女が僕の母が眠っている時にしか僕と会わず、また、「母を悼む気持ちと彼女を思う気持の区別がつかなくなって」p.29 いる僕の様子から、僕が彼女に紡ぎ女の母的側面を見出していると判断できるからである。
ところで、「いばら姫」における紡ぎ女の役割を彼女が担っているとすれば、彼女は「創造」「破壊」「再創造」というプロセスによって僕の運命を決定づけるはずである。すなわちテクストと照合すると、「創造」= 12歳の時の記憶、ホスピスで刺繍をしている時間、「破壊」=母の死、「彼女」の消失と仮定することができるのではないか。すると、最後に残された「再創造」とはいったい何を指すのか。
3 刺繍によるケアⅡ ——刺繍で「語り」「分有」する——
まず、ジャン=リュック・ナンシーによって提唱された「分有」という概念について確認を行う。ナンシーの提唱からわかるのはまず、「死」は一個の主体のみで成立するものではないということ。次に「死」のトポスにおいて、死ぬ主体とその死を成立させる他者たちをまとめて有限的な「共同体」とするのであって、国家や民族といった無限で絶対的な共同体を指すわけではないということである。そしてこの有限的な「共同体」によって露呈するのは、「いつだれが死ぬのかわからない」という自分や他者の「死」の認識である。これらが何を指しているのかというと、死に瀕した我々に求められているのは死から目を背けるのではなく死という存在を認め、他者と、死の瞬間まで生をどのように全うするのかということについて考える必要があるということである。
次にナラティブ・アプローチについてであるが、患者は自分の症状、経験について語るとき、「聴き手」を意識して語ることになる。それは、話を終えた際に「聴き手」という他者に自分が「承認される」ように「前未来形」で話すということである。そして、前未来形で前倒しできる最遠にして最後の時点は「死んだ後の自分」である。「死んだ後のわたし」を消失点に据えて、そこから前未来形で現在を回想するような時間意識をもつことのできた人間はよく生きることができる一方で、「死んだ後の自分」から今を回想できない人間、胆力がない人、危機的状況をリアルタイムで生きてしまう人間は、いきなり死んでしまうのである。
つまり、ナラティブ・アプローチが「「死」の有限性について(言葉を通じて)自覚的になる」という点で「分有」の特徴を内包しているといえる。そして小川洋子は以前、刺繍について「指先は常に、糸の未来を予知している。//指先だけが、少しずつ姿を現すレースの模様に刻まれた物語を、既に知っているのだった。」p.238(5)というふうに述べており、刺繍と時間、語りとの関連について気づいている。
これを踏まえた上で今一度テクスト内の刺繍についてみていく。まず彼女の刺繍を初めて見た時僕は「最初は小さな虫を、一匹一匹針で突き殺しているのかと思った。」p.11 と述べている。これは刺繍を行う際に用いる針の針先が虫を殺すような作業を担っていること、つまり針の未来は死を示すということを表している。そして刺繍は面白いのかという僕の問いに対し彼女は「「おもしろいかどうかは、よく分らない。一人ぼっちになりたい時、これをやるの。自分の指だけを見るの。小さな小さな針の先だけに自分を閉じ込めるの。そうしたら急に、自由になれた気分がするわ」」p.18と答える。すなわち、先述したように針の先が死に向かうとすれば、彼女は「自分を針の先に閉じ込める」、つまり自分の死を想定しているのだといえる。彼女が行う刺繍は「「ペケ印になるようにすればいいのよ。」」p.18 という発言からも分かる通りクロスステッチであるが、ペケ印に糸を縫い付けるということは、糸があちらへ行ったりこちらへ行ったりという動きをすることになる。これは、二章でもふれた「「死に塗りこめられてなんかいないわ。ここは通り道なのよ。あちらへ行く人と、こちらへ戻って来る人のね」」p.24 という彼女の発言と重なる部分がある。
すなわち、彼女は刺繍をするという行為によって、針を通すという行為と自分の死の未来を重ね、「自分を前未来的に語る」という死への向きあい方を身につけていたといえるのではないか。これは僕に、刺繍が完成した後はどうするのかと聞かれたとき、「彼女」が「「刺繍をするのよ。決まってるわ。他に何をするっていうの」」p.29 と答えたことからも読み取れる。彼女は僕の母の死をベッドカバーの完成とともに受け止めたあとも、また一から針先の示す「死」という未来に向って進んでいくのである。そして残されたベッドカバーは、「僕が前未来形で死を語れば、母の死を乗り越えることができる」という、「彼女」が再創造した運命のメッセージを託しているのである。
一方で、「刺繍をする」行為は決して「語り」の行為を含んでいないではないかという意見も出てくると思う。しかしながら、ナラティブ・アプローチにおける「語り」すなわち「テクスト(text)」は、ラテン語の「テクストゥス(textus)」という「織物」という意味の語に由来している。「語る」ことは「紡ぐ」こと。このことを「刺繍する少女」は悟っていたのである。
おわりに
1章では開かれた身体と閉ざされた身体について確認し、僕と母が前者に、彼女が後者になりうることを確認した。
2章では、開かれた身体であるはずの僕が死を受け入れられておらず、閉ざされた身体であるはずの彼女が死を受け入れられていることを確認した。したがってまず僕がとった行動は「夢を見ること」である。「刺繍する少女」には神話やおとぎ話に見られる紡ぎ女のイメージを重ねることができ、それは対象に対して運命を決定する役割を担っている。その運命が、「いばら姫」における紡ぎ女がもたらした「創造」「破壊」「再創造」というプロセスをたどるとすれば、最後の「再創造」にて「刺繍する少女」は僕にどのような「希望」をみせるのかという疑問が残る。
3章ではその「希望」を「死んだ自分を前未来形で語」り、周囲と「分有すること」として示した。「死んだ後のわたし」を消失点に据えて、そこから前未来形で現在を回想するような時間意識をもつことのできた人間はよく生きることができる。「彼女」はそれを行っていることを、「刺繍」によって暗に示し、最終的にベッドカバーとして僕にも提示してみせたのである。
最後に、タイトルに注目したい。「刺繍する少女」は本来「刺繍をする少女」でもいいはずだが、このような表記にしたことには何か意味があるのだろうか。後者は、「する」という動詞の対象が「刺繍」になっているのに対し、前者は「刺繍する」という一つの動作名詞となっており、これ自体の対象(目的語)が示されていないままである。この解釈の余地が物語全体のふくらみをもたらしていると思うが、自分は「「死(んだ自分)」を刺繍(テクスト)する少女」として本論を閉じたいと思う。
〈参考資料〉
(1)小川洋子、堀江敏幸 「小川洋子インタヴュー ×堀江敏幸 有限な盤上に広がる無限の宇宙」 『文藝』 第四八巻第三号 河出書房新社 2009年8月
(2)アーサー・W・フランク、鈴木智之 訳 『傷ついた物語の語り手——身体・病い・倫理』 ゆみる出版 2002年2月
(3)内田樹 『死と身体 コミュニケーションの磁場』 医学書院 2004年10月
(4)S・ビルクホイザー―オエリ、氏原寛 訳 『おとぎ話における母』 人文書院 1989年7月
(5)小川洋子 「美 第十四回 レース編みをする人の指先」 『文藝春秋』 第九九巻第一〇号 文藝春秋 2021年10月
(6)仁子真裕美 「日本語教師の立場」 『日本語教師を応援するTomo塾』 2018年10月23日https://www.tomojuku.com/blog/students-questions/3/(最終閲覧日:2022年10月19日)
(7)千田洋幸 『ポップカルチャーの思想圏』 おうふう 2013年4月
〈疑問点〉
・猫→衰弱して食べられなくなる母親と対照的、糖尿=死に向かう?
・三か月という数字→浮遊するシニフィアン?
・指貫、裁縫箱
・背中をさすってやったが、いつもきっかり八分で→八分は陣痛の第一期の間隔→生き物を産む、生をつづけていくことの諦め?↔ケアの完了?
・秘密めいた残酷な遊び
・無花果の木の下→無花果は神話で「禁断の果実(リンゴ)」と同様の扱いを受けたり、アダムとイブが自分の裸を無花果の葉で隠したことから「後ろめたいことを隠す」ものとして用いられたり…
・別荘へ戻る
・食べること
・モスグリーンのベッドカバー≒宿題の写生の絵(林を描いて…、残り少なくなった緑の絵の具…)
→植物=生の象徴?