誰かとの繋がりの中で生きていくということ

小学生の頃、「昨日」の存在を証明するために、
通学路から見える夕日を、心から嫌になるくらい見つめ続けて、
「明日この道で、この経験をありありと思い出せたら、『昨日』は存在していることにしよう」という定義づけを試みたことがあります。

ふと振り返って、その頃から私は一貫して自分のことを点的な存在、
ひとつの個体的な存在として認識していたんだなぁ、と感慨深くなりました。
そして自分では意識していなかったけど、その点的なあり方にずっと不安を抱えていたんだな、と。

―――

最近、「私」は、ひとつの点とか個体とかそういう単独の存在ではなくて、
誰か・何かの長い蓄積が積もりに積もって形成された誰かたちが、
生れたばかりでからっぽだった私に、その蓄積を注ぎ込んで形成されている存在なんやな、と思えるようになったことに気が付きました。

長らくそれを、誰かのコピーや丸写しとして生きていくことを求められているのだと思い込んでいたけれど、
それはまだ空っぽの子どもに、できるだけたくさんのことを注いで、自分なりに合うものと出会ってね、っていう例えば誰かの「愛」かもしれないし、

「大人としての義務」というところなのかもしれない。

義務や義務的に縛られた愛じゃなくて、やわらかくて自由な愛であってほしいけども。

私は今、その蓄積を自分なりに咀嚼して、解釈して自分のいちぶにしていく作業を求められていて、
そこで、自分なりの答えを出しなさい、と言われるのは、
必ずしも誰も思いつかない突飛な「自分らしい」答えではなくて、
でも、それぞれの蓄積や受け取り方は多様だから、必ず誰かと全く同じになることも無い、という話で。

うまく言葉にできないけど、なんか割と生きていける気がしてきました。

―――

繋がってくれていない、断絶していると思っていた先達が、本当はちゃんと繋がっていてくださったこと。
繋がっているとすら思わなかった、若人が、お互いにその気はなくとも、繋がり合っていること。

私は、決してひとつとして、独立して存在する点や歯車ではなくて、
誰かの蓄積を自分なりにかみ砕いて、また別の誰かに繋がっていく、「管」の一部であること。
でも同時に、何でもかんでも素直に垂れ流すべきなわけではなくて、

ただの「管」であればよい、というわけではなくて、


これは心地よいから、誰かに残したいとか、これは皆が本当は困ってるからそのままじゃ不都合だとか、フィルターをかけて選んでいくという作業に、自分がいるということ。

私も、私の周りにいる全ての人にも、ちっぽけな人とかはいなくて、
自分の想像を超えた部分かもしれないけど、誰か・何かときちんと繋がる、みんな意味のある存在、生きているだけで価値がある存在なんだな、ということ。

社会のひとりとして生きることの責任って、たぶんそういうとこに繋がってくるのではないかと思う。

―――

そう思うと、自分のことを大切にすることは、自分の大好きな人/尊敬する人たちを誇ることと同じことだと思えたし、
自分を甘やかして、「なんにも頑張りたくない」と無気力になることが、どれだけ勿体ないことか、分かったような気がしました。

とある誰かは私かもしれないし、私もとある誰かであるかもしれない。

「僕らはもうひとりじゃない(RPG/SEKAI NO OWARI)」ってたぶん、そういうこと。

誰かの蓄積をすべて引き継ぐのではなくて、ほんとうに悪いものは私で濾過したいと思うし、
私がそう生きているように、誰かに蓄積を残せるような生き方をしたい、と思う。
今まで「嫌なことは嫌」と退けていた、ほんとうのことを知る勇気、
自分が知りたくない世の中や現実を知る勇気が湧いてくるような気がする。

(でもそれは別に、清く正しく美しく生きるとか、
頑張る!とかじゃなくて、あくまで私の判断で、私のなりの選び方、見方であるので、
私がいわゆる「責任感があって真面目で一生懸命」な大人を目指してるとか、なりたいかと言われたら、またそれは全くの別問題なんですがね。)

大人、というか、社会に生きる人間としての義務って、苦しさやしんどさではなくて、

結構愛すべき素敵な義務みたいな部分もあるのかもしれん。

そうだといいな。

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