「わかった気になられてたまるか」を深掘りしたら、誰かと「わかり合いたい」自分を認めることになった
「結局また1人になる」。
この数ヶ月、この気持ちと向き合ってきた。
その過程でよく出てくる「わかる」「わからない」のワード。
先日はこんなポストをしていた。
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どれだけ信頼できると思える人たちが増えても、結局また1人になるという気持ちが消えない。自分の弱さのせいで、周りからの気持ちを受け取れないことが嫌だ。そんなところからのスタートだった。
日々の内省、コーチングセッション、色んな場でこの気持ちを持ち出して向き合ってきた。
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今日、この「結局また1人になる」の芯にあった本当の願いのようなものが出てきた。認めたくなくて、反発してきた気持ちを認めたような感覚。まだ私自身が言葉にしきれていないから、かなり抽象度の高い表現しかできないけど、私の中にあったインパクトだけでも残しておきたい。
「結局また1人になる」は裏を返せば「1人になりたくない」であり、私にとっての「誰かとわかり合いたい」だった。
他人との関係性の中で素直に自分を出すことを、周りはみんな自然にしているのに、出来ているように見えるのに、私はいつまでもできない。これまでに出来た記憶がない。自分には決定的に何かが足りていないんだと思ってきた。ここで言う"何か"は、外的要因というよりは内的要因で、自分に欠けている力や感情がある気がしていた。
自分と他者との価値観は違うことを前提に、それを擦り合わせるためのコミュニケーションが下手。というか、「違う」と感じた瞬間に自分を出すのはやめて相手に合わさるようなことしかしてこなかった。いつも、努力をしないで「あぁやっぱりわかり合えないんだな」と諦めた。
誰かと本当にわかり合える世界線を、「ある」と思いたくなかったのは、わかり合うためのコミュニケーションが「出来ない」からで、「ある」と思ったら「出来ない」に向き合わないといけないから。
ここまで自分の中に落ちてきてみて感じるのは、この気持ちに気づけた嬉しさというよりも、気づいてしまったのにどうにもならなかった時の怖さだった。
我ながら、このテーマに対して弱気すぎる。
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全くもって結論は出ていないし、何かが解決したとも言えないけれど、
これを認めただけで、かなり進捗だと思う。本当の願いを認めないと、結局のところ根本的には何も進まないから。
「わかり合う」の言葉の意味は、きっと人それぞれ違うんだろう。私の「わかり合う」の感覚も、万人が理解してくれるとも思わない。それでも私は誰かとわかり合いたいんだなぁと思った。私は私にとっての「わかり合う」をもうしばらく探求してみることにする。