ただ発信しているだけで、勝手に救われる人がいる。
先月の半ば頃から、ライターの江角悠子さんのメルマガを拝読し始めた。以前から年に数回訪れる、"書けない期"を脱するヒントがほしくて、というのが主な理由だった。
フリーライターとして17年間も活動されている江角さんのノウハウがぎゅっと詰まった7日間のメールレッスンをはじめ、日々綴られる"書く"に対する考え方や想いに心を動かされ、ZINEも購入させていただいた。
江角さんのZINE「文章を書いて、生きていきたい」は
読んでもらえる文章を書くためのテクニックがたくさん盛り込まれていたが、ガチガチのノウハウ集というわけではなく、口語文も混じった柔らかい文章なこともあってかnoteを読んでいる感覚に近く、あっという間に読了しまった。そして、一気に江角さんのファンになった。この文章、好き。
私の永遠の憧れ・中山庸子先生もそうだが、やはり私はチャーミングで飾らない人柄が見えるような方に惹かれるんだなあと、改めて思う。
ほっこりしたり、ハッと気付かされることがあったり、江角さんのユーモア溢れる文章の中、「書くことで私を救う」は、書くこと迷走中な私のほっぺに突如として強烈な右ストレートをかましてきた。
書くことで救われ、癒されているのは、他の誰でもなく自分。そうでなければ、仕事でもないのにネットの片隅でこんなに長々とポチポチ文字を打っていない。
しかし、いざ外に向けて発信しよ!と意識すると、肩に力が入ってしまう。誰かにとって有益なもの、役に立つもの、メリットを感じてもらえるものを書かなければいけない…と思ってしまう。
もちろん、仕事においてはそういった文章を求められることは往々にしてあるが、個人で書いているnoteやSNSにまでその意識を持ち込んでいるから、きっと私はたびたび書けなくなるのだろうなあ。
ぶっ刺さった。分かっている、分かっていた…はずなのに、いつの間にか忘れてしまっている意識。
ふと思ったのだが、別に自分は外に意識を向けて書いたつもりはなくて、自分のために書いた自分を救い出すための文章でも、どこかで勝手に誰かを救っていることはあるのではないだろうか。
というのも、そういえば私はいつも大好きなバンドのメンバーにお手紙を書くとき、「この曲に、いつも救われています」と書いていたことを思い出したのだ。
これって、曲を作ったメンバーの意思とは関係なく、私が勝手に思ってるだけだよなあ。
メンバーもきっと、誰かを救いたいと思って曲を作っているわけではないと思う。曲や歌詞に、リスナー側が自分の心情や想いを重ね合わせたりして、勝手に救われていく。そういうものだ。
まずは、自分のために書く。
それはひとえに、書くことで一番癒されて救われているのは自分だから。
もっと肩の力を抜いていいのかな、と気づかせてくれるコラムだった。
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