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悲しみの秘義

これまでの人生を思い返して、大切なひとを喪った経験があっただろうか。

20代半ば、どうしてもまだ死というものが遠い存在のように感じられて、死に対して傲慢な気持ちを抱いていたりする。自分でさえいつどんな理由で死んでしまうかわからないのに、まだ大丈夫だろうと驕りがある。

本書は、宮沢賢治、須賀敦子、神谷美恵子…など人生の途中で愛する人を喪った人たちが経験した深い悲しみを記した言葉を著者がひとつひとつ掘り下げている。

思い返せば、これまでほとんど会ったことのない親戚の葬式に参列したことは何度かある。けれどそのどれもが、生きて言葉を発し、表情を変え、皮膚が柔らかかったときのその人をほとんど知らないままで、棺の中に横たえた「少し前まで生きていた人」という認識でしかなかった。悲しいなど思う隙も与えられず、仕事を早退してお下がりの喪服に着せられ親に連れられるままに参列。なにもかも私を取り残したまま、私の周りだけがぐるぐると忙しなかった(葬式というのは大切な人を亡くした渦中の人が一番悲しむ隙すら与えられないのだろうけれど)。

小学生の頃、姉のように慕っていた女性が自死した。幼かった私から見てもとても美しくて、向日葵のように笑う人だった。大人になったらこんな女性になりたいなと思っていた。当時30歳くらいだったと思う。新婚で夫婦ともに家族ぐるみで仲良くしていて、子どものいなかったふたりには、娘のように姪っ子のようによくしてくれた。漁師さんが乗るような船を借りて、夜空に打ち上がる花火を墨色たゆたう海の上で見上げたこともあった。

私たちが成長するにつれ、次第に疎遠になっていったのだけど、どこかで元気にしているだろうと、どこにいてもあの向日葵のように鮮やかな笑顔で周りを癒しているのだろうと思っていた。ある日、父の携帯に届いた突然の知らせ。私たち家族は、驚きのあまりしばらく言葉を発しなかった。そんな中でも伝えられる葬儀の日程。人生はまだまだこれからで、新婚で、子どもだって望めたはずだった。遺書もなくあっけなく、ひとりで過ごすお昼、マンションから飛び降りたのだそうだ。

当時小学生の私は、葬儀は恐ろしいお化け屋敷のように思っていた。なので私と母が車の中で待機し、父だけが焼香して帰ってきた。

毎日が楽しいことで溢れていた私は、いつしかその悲しみもおねえさんが亡くなったことも頭の片隅に追いやり、そして忘れていき、気づけば大人になった。
あんなにも大切だった人たちの死を鮮明に思い出したのは、こうして同じように大切な人を喪った人たちの深い悲しみに触れる本を手にとるようになってからだ。

これからも大切な人を喪う瞬間はやってくると思う。その度に私はこの本を何度も何度も開く。暗がりの中にいる人に美しい文章で寄り添って救ってくれる本です。

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uka
「夏の花が好きなひとは、夏に死ぬっていうけれども、本当かしら」 太宰治『斜陽』

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