(たぶん)変わりゆくサン・ジワン枯松神社
数日前にちょっとだけ外海地区を訪問した。いつもお世話になっているTKサンにお付き合いいただいて、枯松神社と子捨川・仏崎を見に行った。
枯松神社というのは、外海の黒崎地区にある場所で、神社というけれど社格は持たない。かくれキリシタンの史跡の一つで、訪問ははじめてではない。
わりとどうでもいいことかもしれないけれど、枯松神社参詣のために車を停めるこの場所は、外海総合公園という公共の場である。車から降りて枯松にむかおうとしたところで、TKサンが、ここは県内で(たぶんそういった)はじめてナイター設備がついた施設なのだと教えてくれたのでいちおう写真を撮っておいた。
TKサンはこのへんの生まれで、地域のことに詳しい人であるから、会うたびにいろんな話を聞くことができる。80歳をいくつか超えていて、内容はくりかえしも多いけど、やはりこういう人は貴重である。カトリックで、教会のこともよく教えてもらうし、地域のことだとかくれキリシタンだったり、史跡に関してもその知識は多いほうだろうとおもう。
私にはかくれキリシタン側で近しい人物はいないので、聞いた話から受ける印象や知識は偏っているかもしれない。
枯松神社を管理というか、保全というか、そういうことを主にするのはかくれキリシタン系統の住民のようである。この周辺の住民のうち、かくれキリシタン、曹洞宗天福寺檀家、カトリックとで、2000年より枯松神社合同慰霊祭(枯松神社祭)というのをおこなっていたのだけれど、司祭の異動やら高齢化やらで現在の枯松神社祭はかくれキリシタンのみでの催行になっているらしい。
目的のなかに「宗教の一致」とあるのをみたけれど、それよりもまず、おなじ宗教内であっても一致していないのでは、ともおもえる場面とかあって、なんともいえない(部外者の勝手な私見です)。
拝殿を開けてみると、石祠がある。『長崎談叢』という本(雑誌かな)の1973年の記事に、拝殿のなかに線香立てがある、という記述があった。石祠の前においてある焼きものが線香立てなのか、どうか。当日はそこをよく見なかったし、この写真からは判断がつかないけれど、そういわれると仏前のしつらえに似ている。
そもそもここは、禁教期に布教活動をおこなった外国人宣教師サン・ジワン(Johannesの訛ったもの)の墓所という伝承をもつ地なのだけれど、かくれキリシタンや天福寺の人たちにとってサン・ジワンは「ご先祖様」との認識らしい。供物とかの様式が混じっている様子から、信仰もいろいろに混じっていることが視覚的に理解される。
周辺にも伏墓が見られるけれど、むかしはもっとたくさんあったのを後年に共同墓地を整備して移してある。いまも残っているのは特定できなかったものと、いくつかはおそらく空墓だろうと何かに書いてあった。
かくれキリシタンの人たちは、この大きな岩の陰でオラショなどの祈祷文を口承したのだという。地元で活動する〇〇さんは「練習した」って説明しよった、とTKサンがいった。しずかな調子で口承・口伝と言うのがほんとうやろうね、ともいった。
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ここをあとにして、子捨川にむかった。といっても、現場までは行かれなくて、遠くから眺めたりしただけである。
子捨川というおそろしげな名称は、18世紀ごろに大村藩の政策でおこなわれた間引き(人口制限)の名残りである。口減らしのための子殺しで、キリシタンたちにはたまらない施策だった。
矢印のあたりに見える、国道の脇にのびる道は昔の県道だったという。すごく狭くて、ここをバスが通っていたとはにわかに信じがたい。海にむかって谷というか断崖というか、になっているので、背筋が冷たくなりそうである。いま、足を踏み入れられるのは矢印のちょっと先くらいまでである。
ピンどめの子捨川までいくには、三重田というところから降りて、歩いていくなどしなくてはならない。
上の地図の「永田いこいの広場」というところで右手に見えるのを仏崎と呼ぶ。TKサンは子ども時代にこの下で釣りをやっていたのだとか話していたけれど、どこからどう降りていったのかよくわからない。すごい子どもである。
上の写真の場所から「永田いこいの広場」にむかって歩くと海側にこんな景色がひろがる。この雑木まみれのところは平地になっていて、ずっと昔は豚と山羊が放牧されていたのだといっていた。糞尿を海に流せるから、都合のいい場所だったのだとか、なんとか。樹木や草を払ったら、空き地が広がるんだな。
足腰がつよく、以前はもっと山深い巡礼地「次兵衛」登山を案内したTKサンも、このごろは足がいたいとたまにいう。あちこち歩かせてしまったな、と反省しつつ、いい時間を過ごさせてもらった。