意識の及ばないところ
広島と長崎に原子爆弾が投下され、それに続く終戦が近付いた周辺には、そういうところにいくらかでも意識がいくものである。誰しもがいくらかはそういうものであるかもしれない。
ところでそれというのは、無意識下でも影響があるのだろうか、このごろ読んでいる本のなかで、おもいがけず印象深いものがあった。
『主の道を歩む人』というタイトルのその本は、長崎大司教区の司祭として大浦天主堂の主任司祭をしていた中島政利神父が書いたもので、現在ある文章のために借りてきた資料のうちの一冊である。必要な部分から先に呼んで、せっかくだからとおもって眠る前の少しの時間に読み進めている。
初代長崎大司教に着座した、山口愛次郎大司教とのことを書いた章がある。
1929(昭和4)年に中島神父が神学生として入学した際、山口神父(当時)は大浦天主堂に隣接する長崎公教新学校の教師をしており、隣の司教館に住んでおられたとある。
1936年に中島神学生は東京公教大神学校に進学し、同年に山口神父は鹿児島の教区長に任命された。この年は二・二六事件が起こるなど国内は不穏で緊迫した中にあった。
2年後、中島神学生はローマのウルバノ大神学校へ留学することとなったが、留学を目前にして召集令状が届き、入隊、2年余りあとに除隊されたかとおもうと1年もたたずにまた召集、入隊して2年半がたち、もういっぺん召集されたところで怪我を理由に即日帰郷となった。
1945年8月9日、長崎・浦上に原子爆弾が落とされた。
著者は神学生として入学後、入隊の合間に司祭に叙階されており、3度目で入隊を免れ浦上が被爆するまでの間のこととして相当のエピソードが綴られている。
山口愛次郎司教やその他の司祭、肉親のことや自身のことなど、当時の状況からして穏やかなことのほうが少ない日々のことを、どこか淡々とした文章で書かれていて、胸があつくなりながらもすいすいと読んでしまう。
相当のおもいをしたはずであるのに、きれいな文体で綴られているところに感心する。
浦上天主堂が倒壊し消失した跡に立ち尽くす場面などどうとも書ききれない。
そうしたところで、今朝はまた別の資料を探している最中に、ふと目についた論文を開いてみると、それは被爆した浦上天主堂を保存しないと決めた当時の大司教について書かれたものだったから驚いた。つまり先に触れた本に出てくる山口大司教である。けっこう長かったけれどつい読んでしまった。
(このようにして仕事が遅れていくのである)
浦上天主堂は、被爆倒壊後、廃墟を撤去して1959年に再建されている。
広島の原爆ドームでは保存をめぐる市民運動の末、保存が決定され工事がおこなわれた。
一方長崎では、浦上天主堂の保存について市民や市議会から保存の要請があったものの、被爆遺構を取り壊し、新しい聖堂が建てられた。
この決断をしたのは山口大司教であり、それに対する周囲のわだかまりが残ったという。
浦上天主堂が建てられた土地が、禁教時代に絵踏みがおこなわれた庄屋屋敷を買い取って建てられていることや、原爆の悲惨な記憶を思い起こすことのないよう取りはらったほうがよいなどを理由に決定されたものだったという。自身の母親は聖堂内で犠牲となっている。
教区司祭の中にも、信徒の中にも(もちろん実母が犠牲になった自身にも)廃墟の撤去に関して複雑なおもいがあっただろう中で、そのような決断をした山口大司教に対し、アメリカからの圧力があったのではとの推測をする人もあったそうである。
いろいろと説明をしようとすると、字数がとんでもないことになるので端折らせてもらうけれど、明治という時代に入り、やっとのことで信仰の自由を得た日本のカトリックが、国家や人種を越えた信仰生活の中で戦時中を生きることの葛藤というのは計り知れないとおもう。
山口大司教は、留学したローマのウルバノ大学でいくつもの国の生徒たちと過ごしており、そのときに人種や国籍を越えたカトリックの精神のつながりを体験している。
戦時色が濃くなる中で、神社参拝時に敬礼を拒否したカトリックの学生の行動が問題視され、それをきっかけに、神社参拝は愛国心の現れであり宗教行為ではないとして神社参拝を容認する方針へ変化していく教会の姿などをそばで見ていたことをおもうと、葛藤の連続だったろうと息がくるしくなる。
確かめたわけではないけれど、原爆を搭載したB29が基地を離陸する前に、従軍チャプレンがその乗組員を前にして簡単な礼拝をおこなったという話を聞いたことがある。
これまでにない大量破壊兵器を戦争とはいえ多くの一般市民を殺戮するために出撃する兵士たちを送り出す祈りには、相手側としての立場は含まれていない。そのような葛藤を抱える兵士たちをサポートするためである。こうしたところは人間として、どちらの立場であったとしても納得することはむずかしい。
そのような時代に生きた長崎やその他の地の司祭や信徒たち、多くの普通の人々たちがいたというのは、どこかでは了解していながらも普段は考えることのない領域である。
誰かの行為や決断を、批判するのは簡単であるけれど、ひとたびこうしたいくつかの視点から物事を眺める機会を得ると、さまざまのおもいに取り巻かれる。
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先日は、入院中の祖母を見舞った母と姉から、会話の途中で祖母が何度も「昨日はやっとのことで小倉について、まあ大変やった」などと言ったのだと聞いた。満州国からの引揚を昨日のこととして話していたらしい。
祖母も、多少呆けながらも無意識下で戦争直後の記憶が、この時期におもい起こされたのかもしれない。
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今日の「ねむねむ」:日中なんだかやたらねむたいなとおもったら、しし座の新月でしたね。あるいはお盆明けで意識がだれていただけかもしれないけれど。