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肥前一宮

 佐賀県三養基郡みやき町に千栗八幡宮ちりくはちまんぐうというお社がある。たまに、そばを通ることがあって、気になっていたのだけど、先日機会をえて立ち寄った。
 地図の示す駐車場にむかって車で上っていくと、混雑というか賑やかな気配がして、これは、とおもう。境内では高校生らしき吹奏楽部(?)が秋の(といっても真夏のように暑かった)神社に似つかわしくない音楽を披露している。

 よりによって、と、なんともいい表せない心もちで、Kさんとお詣りをする。マツケンサンバを背中にうけとめつつ神社をあとにした。

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 千栗八幡宮は壬生春成というひとが夢をみて、翌日千栗の山にのぼると、一夜にして栗が千株生じていて、ここに弓矢八幡大神が降臨するとして724(元亀元)年に創設したなどの記録が残っている。つまりご神託で成ったお社で、ことし(2024年)創建1300年をむかえている。

 古くは神宮寺で、宇佐弥勒寺の正統をひく弥勒寺・院主坊妙覚院であったといい、聖武天皇時代の国家仏教政策の一部であると述べている資料もある。祭神にある神功皇后については、蒙古襲来のとき「三韓征伐」にともなって神功皇后説話が強調されたとの指摘である。1309(延慶2)年に宇佐神宮と弥勒寺が大火にみまわれ衰えはじめたころに、千栗八幡宮の衰退もはじまったのだという。それに代わって、河上神社(與止日女よどひめ神社)が肥前一宮として台頭してくる。

 千栗八幡宮は「肥前一宮」なのだという。肥前一宮はもうひとつある。もうひとつというのは佐賀市大和町にある與止日女神社で、このふたつの肥前一宮は、社格をめぐってはげしく抗争をしたらしい。中世から近世にかけてのこととある。中世では妙覚院には幕府方、実相院座主・尊純には後陽成天皇を始め、皇子などの朝廷方の支援があったともいう。佐賀藩の手におえず、双方に一宮の称号をあたえておさめたそう。
 近世の一宮あらそいのときは、こうした下地に重ねていろいろと政治的なことが絡んでのことといい、そのころ弥勒寺から千栗社の大宮司側に実権がうつったことなども関係しているなど、いろいろ込み入っているようである(といってお茶をにごす)。

 さらにさかのぼって、もとの肥前一宮は呼子町の田島神社(田嶋坐たじまにます神社)が肥前国内の式内四社唯一の大社であり、大陸との門戸の地だというので渡航の安全を祈願したが、遣唐使廃止後、国府に近い與止日女神社にうつったという記録がある。田島神社の摂社には佐與姫神社があった。

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[参考]
『肥前史研究 : 三好不二雄先生傘寿記念誌』,三好不二雄先生傘寿記念誌刊行会,1985.3.
神奈川県立金沢文庫 編『金沢文庫研究』(285),神奈川県立金沢文庫,1990-09.

 上の文献のなかには、神功皇后の妹と伝わる淀姫についての章があって興味深かったけれど、今日はここまで。

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片山 緑紗(かたやま つかさ)
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