見出し画像

NEO反社だ馬鹿野郎

合法か違法か、そんなことは最初から関係なかった。

この世界には、不健康そのものを美徳として崇める人種がいる。
彼らは好んで体に悪いものを選び、その中に一種の美学を見いだす。
それは、彼らの生き方において、自らが「社会のレール」を外れた証として、真面目に生きる人々への反抗となる。

まるでロックンロールのリフが鳴り響くように、彼らは自分たちのライフスタイルを「自由」として賛美する。時にはパンクスピリット、ハードコア、あるいはヒップホップといった文化の一部として。
その姿は、一見すると何か高尚な目的を掲げ、時代に逆らっているようにも映るだろう。けれど、その実はどうだろうか?

敢えて言おう。彼らが追い求めるのは、ただ楽な方に流れ、快楽を追求しているだけのことだと。
僕もその一員だった。反抗心という旗を掲げ、破滅的な行動を正当化し、安易な快楽に溺れていた。自由や格好良さを装っていたが、その実、自分を甘やかす言い訳を探していただけだったのだ。

結局、そんな生き方は一時的な逃避に過ぎなかった。
そして、そんな自分に嫌気が差した僕は、37歳にして大きな決断を下した。
あらゆるドーパミンを外から摂取する方法を断ち切ることにしたのだ。

それは皮肉にも「ストレートエッジ」と呼ばれる生き方に奇妙なまでに似ていた。

「喫煙しない」「麻薬を使用しない」「アルコールを摂取しない」「快楽目的のみのセックスをしない」という明確なルール。

それがストレートエッジの基本的な理念だ。
これは、かつてロックの世界で象徴的だった「セックス、ドラッグ、ロックンロール」という享楽主義に対するアンチテーゼとも言える。

その存在は以前から知っていた。だが、実際に自分の生き方に結びつくと、まるで新たな発見をしたかのように感じられた。
反抗精神を掲げたはずの僕の選択が、奇しくもストレートエッジの価値観に近づいていく。最初は矛盾に満ちているように思えたが、よく考えてみれば、これも一つのロックなのだ。

ロックとは何か? それは真面目な反抗であり、同時に反抗に対する反抗でもある。ロックとは、常に大衆に背を向ける姿勢だ。
かつてのロックが享楽を追い求めたのなら、その享楽への反発もまた、ロックの精神に他ならない。つまり、ロックとは、時代や価値観に逆らい続ける姿勢そのものなのだ。

要するに、ロックとは、一つの固定された価値観に縛られるものではない。それは時代ごとに形を変え、社会の風潮に対して反発し続ける流動的な精神である。
大衆がある価値観を支持するならば、ロックはその正反対の方向へと突き進む。かつてはドラッグやセックスがロックの象徴だったが、今の時代においては、それらすべてを拒絶することこそがロックなのかもしれない。

ロックを支えるイメージは、決してブレず、折れない鋼の柱が一本立っているものである。
しかし、それは単なる幻想に過ぎない。実際には、ロックは常に大衆に対する反骨精神を抱き続けている。
そして、その反骨精神こそが、ロックの真髄であると、僕は今ようやく理解したのかもしれない。

だいぶ話しが脱線した所で僕の話しに戻ろう。

僕にとってアルコール、タバコ、薬物、さらには自然由来のものでさえも、それらはすべて、手軽に手に入るアッパーだった。

そして、それを辞めたことで、僕は初めてその依存の深さに気づいた。

一歩外に出れば、誘惑はそこかしこに溢れている。
街角のバーの灯り、タバコの広告、処方薬の宣伝。
どれもが簡単にドーパミンを出させようと甘く囁いてくる。

だが、よく考えてみて欲しい。
それらのものが存在する理由は、僕たちを幸福にするためではない。
実際には、単に金を生むための装置に過ぎず、消費者の健康や幸福など、誰も気にかけていないのだ。
彼らは、僕たちが病に伏せたときに責任を取ってくれるわけではないのだ。

その上で、僕はそれらの即効性のある快楽を捨て去った。
未練がましく言うと、「長年連れ添った最高の友人」に別れを告げたのだ。

僕は元来セロトニンが不足しがちな体質だ。
これは、特に医師からそう診察を受けた訳ではない。
だが確実にどこかの回路が正常に機能していないと確証出来る。

日々の楽しい出来事やハッピーな出来事は、まるで僕の内側にある「幸福のタンク」に底抜けの穴が空いているかのようにすぐに流れ去ってしまう。

そのため、若い頃から希死念慮という暗い影が、しつこく僕を追いかけてきた。そしてそのたびに、僕は自分自身の限界へと追い詰められていった。

しかし、歳を重ねるにつれ、僕は少しずつ感情のバランスを取る術を覚えていった。それは、自分の中で「反動」と呼んでいるものへの対処だった。

人は何かに高揚した後、必ずその反動を迎える。
それが憂鬱や虚無感という形で襲いかかってくるのだ。僕はいつも、その感情の波に飲み込まれないように、必死で耐えようとしてきた。

「ドーパミンを外から得なければ、そもそも落ち込むことなんてないのでは?」そう考える人もいるかもしれない。
でも、それは甘い幻想だ。ドーパミンの波がない生活は、やがてゆっくりとした死に近づくようなものだ。やがて退屈が不満を生み、その不満がストレスとなり、気がつけば日常は無色透明なものへと変わってしまう。

では、どうすれば健康的にドーパミンを得られるのか?
その答えが、僕には「運動」だった。特別な準備も道具も必要としない、ただ走るという行為。シンプルだが、それが僕の唯一の救いとなり、今後の人生を照らす道標となってくれたのだ。

最初は、ただの運動だと思って走り始めた。
それがいつしか、僕にとって単なる肉体の動き以上の意味を持ち始めた。
アスファルトを叩く自分の足音が、心の奥底にしまい込まれた何かを解き放つように響く。毎日走るたびに、体の変化だけでなく、心にも大きな変化が訪れたのだ。

走り終えた後に訪れる爽快感は、かつて依存していた手軽なアッパーとはまるで違った。本物の、持続する満足感がそこにはあった。
疲れきった体には、必ず清々しい達成感が訪れる。エンドルフィンが不足していたドーパミンを補い、心に静かな余韻をもたらしてくれる。

走りながら、僕はよく過去の自分を振り返った。どれだけの時間を無駄にしてきたか、どれだけ短絡的な快楽に逃げ込んでいたか。
そして、それによって何を失ってきたのか。走ることで得られるものは、ただの健康や体力ではない。自分自身との対話、過去の自分との和解、それが本当の収穫だった。

街の景色は刻一刻と変わり、季節の移ろいが体に染み込んでくる。
冷たい風が頬を撫で、耳元には風の音がささやく。走ることで、自然と一体となり、己の存在を再確認する瞬間がある。
これこそ、かつて追い求めていた瞬間的な快楽とは異なり、持続する充実感を与えてくれるものだ。

振り返れば、ドーパミンという幻想に踊らされていた過去の僕は、いかに狭い世界に閉じ込められていたのかを思い知らされる。
今、僕が手にしたのは、自由と自己成長の感覚だ。ランニングという行為は単なる運動を超え、心の平穏を与えてくれる。

この新しい習慣は、これからの人生において最も重要な要素になるだろう。
体力だけでなく、心の健康をも支えるこの行為が、僕にとって最良のアッパーとなり、未来に向かう希望をもたらしてくれるのだ。

そして、僕は確信している。
このまま走り続けることで、ただの幸福ではなく、本当の意味での幸福を手に入れることができると。

自分のペースで、どんな困難にも立ち向かいながら、生きていくことができる。
人生の美しい瞬間を味わいながら、ただ前を見て走り続けるのだ。

いいなと思ったら応援しよう!