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二重思考(Doublethink)のススメ

 「二重思考(Doublethink)」という言葉をご存じだろうか。SFファンや読書家、あるいは政治談議が好きな人なんかはもしかしたらご存じかもしれない。そう、全体主義への警鐘を鳴らす『動物農場』や『カタロニア賛歌』などの本を書いたイギリスの作家ジョージ・オーウェルの代表作『1984年』という作品の中で登場した言葉だ。

 この言葉をご存じの方からすれば、おそらくこの記事のタイトルは訝しいものと思われるだろう。なぜならば二重思考とは、作品内では全体主義の支配を円滑にするために国民が強いられた思考法だったからだ。とてもオススメできるような代物ではない。

 もちろん二重思考はオーウェルの描いたような危険性をはらんでいるだろう。しかし私はそれが二重思考の本質的な部分だとは思はない。むしろ二重思考は近代という時代の、そしておそらくは現代までもほとんど批判なく受け入れられてしまっている思考法をのりこえる、積極的な可能性を持っているのではないかとすら思える。

 以下ではオーウェルの考えだした「二重思考」がどういうものかを示したうえで、デカルト‐カントに代表される主体を中心とした世界認識とその問題性を確認し、二重思考がそれをのりこえる上での積極的な意味を有していることを論じたい。

二重思考とはなにか:オーウェル『1984年』の例

 ではオーウェルが『1984年』の中で描いた二重思考とはどのようなものだったのか。それを確認する前にまず『1984年』の世界についてみておこう。

 それは遠くない未来。第三次世界大戦のあと、世界はイースタシア、ユーラシア、オセアニアの三つの超大国によって分割統治されていた。『1984年』の舞台はそのうちのひとつ、ユーラシアである。ビッグブラザーと呼ばれる存在も定かではない男が率いる唯一の政党が国を支配しており、国民生活は思想・言語・結婚などあらゆる面で統制を受け、テレスクリーン(=双方向テレビ)や町中に仕掛けられたマイクで人々の活動は絶えず監視されていた。政府によって都合の悪い記録は即時に書き換えられ、人々は党の宣伝を、それがどんなに自分の思考と食い違う矛盾したものであっても、真実として疑わずに受け入れ、すぐにそのことを忘れるようになっていた。

これが『1984年』の作品世界だ。

 そして二重思考とは党が改ざんした情報を国民に受け入れさせるために浸透させた思考方法なのだ。二重思考がよくわかるフレーズがある。それは主人公ウィンストン・スミスが思考警察に拘束され、愛情省での拷問で信念を打ち砕かれた末、党を心から愛するようになった後に放った言葉だ。

2足す2は5である、もしくは3にも、同時に4にも5にもなりうる(オーウェル『1984年』)

つまりどういうことか。「2+2=4」が真実だと自分は思っていながら、党が「2+2=5」だと言うならば「2+2=5」が真実だと受け入れるということなのである。

 これは恐ろしいことである。思考する主体が自然に正しいと思っていることを放棄・抑圧し、強大な権力が言うことを何でも鵜呑みにしてしまう。これはある意味で、われわれと無関係な問題ではなく、むしろ現在進行形で行われている思考法かもしれない。(どう考えても○○は違法だと思うけど、××さん(上司など)が言うからやらなくっちゃ…など)

 これがオーウェルが描いた二重思考である。たしかにこれだけを見ると二重思考は極めて恐ろしいものだ。しかしながら、近代以降の文明の歩みとその弊害を見ていくと、必ずしもそれだけとは言えない。むしろ二重思考には積極的な意義があるのだ。

近代的主体と真理:カントの認識論

 では近代とはどういう時代だったのか。ひとくちに近代といっても様々な線の引き方はあるだろう。ひとつにはやはりデカルトという哲学者の存在がある。デカルトのだれもが知っている言葉「我思う、故に我在り(cogito, ergo sum) 」。これは近代という時代の一面をよく表した言葉だといっていい。あるいはカントの認識論もそうだ。ここではカントの認識論がどのようなものなのかを見ていこう。

 カントの認識論は、天動説から地動説への転回を唱えたコペルニクスになぞらえて、認識論の「コペルニクス的転回」というふうに呼ばれている。この言葉自体は広く知られているとは思うが、単にそういうふうにも考えられるといった風にとらえられているきらいがあり、その真の重要性はそれほど理解されてはいないのではないかというように感じる。では認識論の「コペルニクス的転回」の何が重要なのだろうか。先に答えを言ってしまうと、認識する主体自身が世界を基礎づけ、真理を獲得可能だとする点なのである。そうした点でデカルトのコギトと並べて論ずることができるのだ。

 ではカントの認識論とはどのようなものなのだろうか。カント以前の認識論では自分の外部にある対象の存在を前提として、それを主体が客観的に認識するという形でとらえられていた。たとえばまず赤いリンゴがあり、それを人間が赤いリンゴとして受け取る、と言った具合だ。しかしカントはそうは考えなかった。なぜなら主体がリンゴを赤いものと経験的に認識したとしても、それはその主体の観念の内でそうあるだけであり、そのリンゴが固有の性質として赤い色を持っていることを証明することはできないからだ。だからこそカントはこう考えた、ある物事を認識するとき、まず認識する主体があり、その主体が観念の内で認識される事物を基礎づけている、と。(このとき主体がそれぞれ別様に認識するのではなく、そこには認識の一定の客観的でア・プリオリな形式がある、ということを探求するのが『純粋理性批判』のテーマであり、その限りで個々の主体の認識は客観的なものとみなされる)そうであるならば、世界における出来事はことごとく主体の観念のうちに存することになる。ダヴィンチの絵画のような、この不動の主体のポジションから遠近法的に世界を観測し、それを客観的なもの(=真理)としてとらえるやり方が、近代の主体の在り方なのである。(ただしカントは主体の観念の外側に、認識できない形で存在し、主体の観念に影響を与えている「物自体」を想定していることにも注意しておかなければならない)

二重思考の積極的意味付け

 そう考えれば、オーウェルの二重思考への批判的な描写も、こうした近代的主体の価値から読み解くことができよう。仮に党やほかの人々が「2+2=5」が正しいと考えているとしても、ウィンストンという主体が「2+2=4」だと考え、「2+2=5」は間違っていると感じるならば、彼は「2+2=5」は間違いだと断ずるであろう。(これは数学的に考えれば「2+2=4」が客観的に正しいという話ではない。後期ウィトゲンシュタインの議論を参照するならば、数学のルールであれ客観的な真理とは言えず、それは恣意的なゲームの規則に過ぎない。ならば1,2,3,5,6.…という数列が考えられるのは全く不思議なことではない。とするとこれは近代的主体と真理との関係の問題なのである。)

 もちろん、こうしたウィンストンという近代的主体の真理への態度も、全体主義や同調圧力に対しては重要な意味を持っている。それは間違いない。しかしながらこうした近代的主体の真理への態度は、その主体の思考の外部にあるもの、思考からはみ出るもの(他者、事物)を排除・抑圧する危険性を大いに孕んでおり、事実歴史を振り返ればそうした事例は山ほどある。最たるものの一つとしてはナチス政権によるアウシュヴィッツでのユダヤ人虐殺などがあげられよう。こうした近代的主体は、自己の党派性を忘却し、あたかも自分が客観的な立場にあるかのような錯覚をしてしまうのだ。

 こうした近代的主体の危険性をみたとき、二重思考にはオーウェルが考えていたような消極的な意味だけではなく、積極的な意味を持っているのではないか。別に自分の自然な考えを抑圧し、誰かほかの人や組織の考えに従うというのだけが二重思考ではない。自分の思考が絶対でないこと、自分の思考とは全く基礎や価値が違う、自分の思考からはみ出す思考があるということを理解することこそが二重思考の本質なのではなかろうか。そうであるならば二重思考には近代的主体を括弧に入れ、思考を外部へと開いていく力があるのではないかと私には思われるのだ。

 私たちはある出来事に出会ったとき、ややもすれば私たちは請求にその善悪を判断してしまうだろう。しかし積極的な意味で二重思考を身につけることができたならば、他なるものを歓待することができる。それこそが同一性を推し進める全体主義に対する一つの対抗手段にもなりえるのではなかろうか。

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