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『チッソは私であった』:文明批判の視点と倫理

 2020年12月、河出文庫から緒方正人『チッソは私であった:水俣病の思想』が刊行された。もともとは2001年にローカルの出版社である葦書房から刊行されたもので、ながらく絶版だったこともありとても手に入りづらく、この度の河出書房新社からの再販はとてもうれしい知らせだった。

 わたしは大学の社会運動に関する講義で緒方さんを知った。いかに上手に資源を動員して、政治的目的を達するかが主眼になる社会運動において、もちろん水俣病の認定訴訟もそうした流れの中に位置づけられるものではあるが、緒方さんはまったく異質だった。幼いころに父を亡くし、自身も水俣病患者である緒方さんは当初は患者認定の運動を巡って中心的な立場にあったが、ある時突然認定申請を取り下げ、運動からも身を引いた。かと思うと木造船を一艘つくり、水俣湾を漕いでいって、チッソの工場の前で抗議するでもなく座り込む。

 わたしはここには、いわゆる社会運動とは全く異質の、根源的な問いかけがあるように思った。すぐにわたしは緒方さんのことをもっと知らなくてはいけないと思い、大学の図書館で『常世の舟を漕ぎて』という本(こちらも最近熟成版として復刊した)を読んだが、『チッソは私であった』は貸し出し中で、なんだかんだ読めずにいた。

 幸い今回の復刊で『チッソは私であった』を読む機会を得ることができた。そしてここには、軽んずることのできない問題提起がなされていた。本稿ではそれがいかなる問であり、我々にとっていかに重要な問いかけであるかを紹介できればと思う。

水俣病について

 はじめに水俣病について大まかにではあるが確認しておきたい。事件が起こったのは熊本県の水俣市だった。入り組んだリアス式海岸と天草諸島などの島々に囲まれ、球磨川をはじめとするいくつもの川が養分を注ぎ込み、豊かな内海の不知火海に面した水俣は漁民たちのまちだった。人々はとれたての新鮮な魚を食卓に乗せて、それを食べて暮らしていた。

 そんな水俣のまちにチッソ株式会社(当時は日本窒素肥料株式会社)の工場がやってきたのは1932年のことだった。工場で働くためにたくさんの人が暮らし始め、なかば企業城下町と化していたものの、それでも多くの人は漁民として暮らしており、1950年頃に不知火海の漁獲高はピークに達していた。しかしこのチッソ水俣工場から、水俣病の原因であるメチル水銀が工業排水として不知火海から流出していたのである。海水に流されたメチル水銀は魚の体の中に蓄積されて生き、それを食べ続けた人々に神経疾患が発症したのである。

 最も早く水俣病を発症したと推測される患者が現れたのは1941年のことだったが、そのころはまだそれほど水俣病としては意識されていなかった。しかし死んだ魚が海に浮かぶことや、猫がよだれを垂らしながら苦しがり死んでいくことがしばしば目撃されるようになる中で、多くの人々に神経疾患の症状が現れ、亡くなる方々も出てきてしまった。はじめはその原因がわからず「奇病」「伝染病」といわれて患者たちへの差別も生まれたが、1958年熊本大学医学部の研究報告会で原因が有機水銀にあるのではないかという説が提唱された。国や県は水俣病患者の認定を行い、患者への補償を行うとともに、工場排水など環境面での規制を行うようになった。

水俣病は終わったのか:補償をめぐる展開

 わたしたちはこの水俣病についてどのように考えているだろう。おおかたは歴史の教科書の中で見た、日本が経済発展を遂げる中で起きてしまった悲劇てきな出来事としてとらえていることだろうと思う。わたしも同じように考えていた。そして水俣病問題が提起されたことで、企業の環境への意識も高まり、そうした問題はもう過去のものであろう、と。

 しかし水俣病の問題は公害認定から半世紀以上たった今でも現在進行形なのだ。それは水俣病患者への補償を巡る問題だ。朝日新聞の2018年9月30日の社説によれば2018年時点で

新潟を含む全国の裁判所で1500人以上が被害を争い、水俣病と認定するよう申請している人は2千人にのぼる

という。また、その背景には「行政のかたくなな態度」がある。

患者の認定制度は対象を絞り込む装置として機能し続け、最高裁が幅広く救済する判決を言い渡しても、政府は基準を見直さない。このため司法に助けを求める動きが繰り返される。

実際に1977年に出された後天性水俣病の判断基準(汚染地区の魚介類の摂取などメチル水銀への曝露歴があって感覚障害が認められることに加え、運動障害・平衡機能障害・求心性視野狭窄・中枢性の眼科または耳鼻科の症状などの一部が組み合わさって出現すること)が現在でも採用されており、その基準に該当しなければ、司法で争うほかには補償は受けることができていない。このように水俣病は現在進行形の問題なのである。

 しかしそうした患者への補償という以上に、別の次元で水俣病は終わっていない。そのことに正面から向き合い、格闘したのが緒方さんなのだ。

制度の中の人間

 緒方正人さんは当初は会員千数百人を抱える水俣病認定申請患者協議会の会長に就任するなど補償運動の中心的な立場にあった。そこには「親父の仇を討とうとする気持ちがずっとあった」と語っている。しかしその運動には釈然としないものがあったと緒方さんは述べている。

十年以上にわたる闘いの中で、私自身の中にいくつかの疑問が起きてきました。私が求めてきた相手、チッソが加害者であるといいながら、チッソの姿が自分に見えてこない。手の届かないところにいる。当時の運動はまるで迷路を歩まされているように、裁判や認定申請という制度の中での手続き的な運動になっていきました。私自身は非常にまどろっこしい気持ちをいつも持っていたわけです。「チッソってどなたさんですか」と尋ねても、決して「私がチッソです」という人はいないし、国を訪ねていっても「私が国です」という人はいないわけです。そこに県知事や大臣や組織はあっても、その中心が見えない。そして水俣病の問題が、認定や補償に焦点が当てられて、それで終わらされていくような気がしていましたし、チッソから本当の詫びの言葉をついに聞くこともなかったわけです。県知事や大臣、いわゆる国からも、いまだに水俣病事件の本当の詫びは入れられていないと思います。そのような形で終わらされていくことに非常に歯がゆい思いをしてきました。

少し長い引用になったが、要するにチッソや国が加害者であるといったところで、2、3年で話をしていた担当職員が変わるなどして、一体だれが加害をした主体なのかとらえられなかったということだ。国や企業の人々は、その制度の中でそうふるまっているだけで、彼ら自身が患者たちと人間的に向かい合っているわけではない。そして患者認定の運動も結局はシステムの中で責任を問うことでしかなかった。

構造的な水俣病事件と言われる責任というか、結局はシステムの責任ですね。システムの責任が今まで言われていたのです。人間の責任という一番大事なものが抜け落ちている。

責任が制度化され、「お金を払ったんだからこれで解決だろう」ということになってしまうと、そこには加害者が被害者に人間として正面から向き合って詫びるという最も重要な人間の責任が抜け落ちていると緒方さんは言うのである。

 そしてそうである以上、自分に問い返しがやってくる。

責任を追及している間は恐ろしくないんですね。責めるだけだから。ところが、逆転を想像するだけで、立場がぐらぐらとするわけです。それまでの前提が崩れるわけですから。チッソの中にいたとしたらと自分を仮定してみると、自分が実は大きくぐらついて答えがない。絶対同じことをしないという根拠がない。

チッソや国の人々が制度の中の人間として、患者たちににべもなくふるまうのならば、自分自身も同じような立場だったら彼らと同じように対応してしまうのではないか、と緒方さんは考えて、それまで当然視していた被害者‐加害者関係の絶対性はぐらつきだす。そしてさらに緒方さんは一歩踏み込んで、自分を審問する。「もしかしたら、自分もチッソに加担していたのではないか」と。

この四十年の暮らしの中で、私自身が車を買い求め、運転するようになり、家にはテレビがあり、冷蔵庫があり、そして仕事ではプラスチックの船に乗っているわけです。いわばチッソのような化学工場が作った材料で作られたモノが、家の中にもたくさんあるわけです。水道のパイプに使われている塩化ビニールの大半は、当時チッソが作っていました。最近では液晶にしてもそうですけれども、私たちはまさに今、チッソ的な社会の中にいると思うんです。ですから、水俣病事件に限定すればチッソという会社に責任がありますけれども、時代の中ではすでに私たちも「もう一人のチッソ」なのです。「近代化」とか「豊かさ」を求めたこの社会は、私たち自身ではなかったのか。自らの呪縛を解き、そこからいかに脱して行くのかということが、大きな問いとしてあるように思います。

自分たちは「近代化」した社会の恩恵をうけて生きている。自分たちもチッソの人々と同様制度の中の人間であり、チッソにある意味では加担している。つまり自分自身ももう一人のチッソであったのだ、という驚くべき転回を緒方さんは遂げたのだ。

文明の歩みとその罪

 つまり緒方さんにとって水俣病事件は、被害者である患者たちと加害者であるチッソや国という表面的な対立軸の奥に、より根源的なシステマティックな文明の問題を見たのである。そうなってくると、水俣病事件に留まらず、さまざまな問題が制度的に進展していく文明の在り方に根を持っていることが明らかになってくる。

 緒方さんは魚について論じている。緒方さんたち漁師は命を懸けて漁に出て、魚を殺して食らうことによって生きている。だからこそ人々は生き物を殺して食べるという罪深さによって自分たちが養われていることを意識してきた。しかし今はスーパーに行けば発泡スチロール容器に決まったサイズで入れられて売られている。ややもすれば包丁を使うこともなく食べることができるかもしれない。それは農産品や家畜の肉でも同じことだ。そのような商品流通の中では、それを買う人は単にそれを商品として認識するのみで、殺して食うことの罪深さに思いが至らないと緒方さんは言う。また人間にしても同じことだ。人間も商品価値として認識されるようになっている。

私たち人間そのものが、ほとんどと言っていいぐらい、値づけられてしまった。肝臓から腎臓の値段まで。昔は食うや食わずで、特に肉体労働者の人たちが自分の血液を売って、その日の食い扶持を作った。あるいは指一本つめて、さも働いている最中に事故にあったよう見せかけて、保険金をとるかという程度の話は、何十年も前からあったと思いますが、今は人間丸ごと値段が付けられて、しかも相場ができている。

つまり食べ物であれ、人間であれ、あらゆるものが市場価値によって判断され、人間の人間性が失われてしまっているのだ。

 そしてこうした問題は戦争や薬害事件など今日的な問題とも決して無関係ではないといっている。

私は以前は、戦争と水俣病のことは別の問題だと思っていたし、長崎や沖縄の問題とも別の問題だと思っていたんです。ところがどうもそうじゃないと思うようになったんですね。・・・(中略)・・・水俣病の事から、実は戦争の問題を考えるようになり、沖縄や広島・長崎の問題も少しわかるようになり、様々な社会事件や薬害事件や日本国内だけじゃなくて、あちこちで起きる民族同士の対立の問題や宗教戦争や、いろんなことを考えるようになりました。ですから、水俣病事件というのはチッソを問うていたという言い方もありますけども、おのれが問われていた気がします。

本書はあくまで水俣病事件を扱っていることから、これらがどのように関連しているのかはこれ以上詳しくは論じられてはいない。薬害事件に関して言えば水俣病との延長で理解ができるが、戦争となるとその結びつきは容易には見いだせない。

 だからこそ補助線をひく必要があるだろう。わたしはこれまでの緒方さんの議論はフランクフルト学派のアドルノとホルクハイマーの共著である『啓蒙の弁証法』での議論と極めて親和的な議論がなされているように思う。『啓蒙の弁証法』では西洋文明が理解のできない自然を脱魔術化し、数や市場価値などの抽象化によって支配できるようにしていく啓蒙の過程で、ひとつの論理の支配が理性による自己批判を受けずに唯一絶対的なものとして人々にも覆いかぶさるようになり、人々がなすすべもなくその暴力性さらされて画一化されてしまうようになったことを描いている。そしてこの議論で念頭に置かれているのは第二次世界大戦で、人々は画一化された中で戦争へと駆り立てられてしまった。つまりこの議論を援用するならば、緒方さんは人々があらゆるものが市場価値という制度にからめとられる中で、人々はいやおうなく戦争へと向けられて行ってしまうのである。

倫理的な問い直し:チッソは私であった!

 このように制度化していく文明の中では、人間は制度の中で動き、真に人間的な部分を抑圧されてきた。そのことこそが、緒方さんが見た水俣病事件の根源にある問題だった。

 それではどのように人間性を回復することができるのだろうか。これは極めて困難な問いとしてわたしたちの前に立ちはだかっている。わたしたちは文明以前に立ち返ることは現実的に考えて不可能だといっていいだろう。わたしはこの記事をパソコンを使って書いているのだし、家に帰るには車も必要だ。TVも見るし、言わずもがな電気や水道やガスなどのインフラを使っている。すでに文明の制度の中にからめとられているのである。緒方さんもこの点を否定はしない。ではいったいどうすればいいんだろうか。

 私たちの人間性を、魂を回復するための一縷の希みをこめた呼びかけこそが「チッソは私であった」という啓示なのではなかろうか。わたしたちは文明の制度の中からは逃れることはできない。しかしだからと言ってあきらめてわたしたちの魂を抑圧し、制度の中で流され続け、罪を犯すことから目を背けるべきではない。緒方さんの言葉をひくならば、

いずれにしても、私たちがたくさんの仕組み、制度の中にからめとられているところには、やっぱり自覚せざるを得ない

のである。「チッソは私であった」という言葉は、絶えず自分が罪深い存在であることを突き付ける。わたしたちは自然を侵し続け、動植物を殺して屠り、文明社会の制度の中で誰かを苦しめているということを自覚しなくてはならない。緒方さんは次のように言っている。

私たちがその埋め立ててきた命の真実ということについて、一番根本をなすところは、私が思うには「人間の罪深さを埋め立ててきてしまったんじゃないだろうか」というところにあります。

そうすることによって自分がことをなすときわたしたちはそのことの暴力性についての自省を促されるのである。

 そうして被害者として加害者を責め立てるというそれまでの考えは180度展開する。責任への倫理的な問いかけは、第一義的に自分に向けられることによってはじめて、真に他者と対話をすることができる。最後に長いが緒方さんの言葉を引用しよう。

チッソの罪というのは人としてのチッソの罪であり、それは逆転して、人として救われなければならないチッソの人たちであるわけでしょう。だからそれは”人としての責任は自らも負う”という一つの覚悟でもあるし、罪を背負うというのはじつは普遍的なことじゃないか、と。人間の責任というものをずっと考えていたわけです。一方で「おれは人間ぞ」と言ってしまっている自分がいる。その罪は負うわにゃいかんわけですね。おれは狂いながらも普遍的な人間を想像しているものだから、チッソの人たちの責任はイコール人間の責任になって、「私の責任」になっちゃうんですよ。そのときの「私」は私的な「私」ではなくて人間としての「私」ですから、まったく同じ責任になっちゃう。むしろチッソの人たちのことをいとおしく思う気持ちにさえなるんですよ、会社の責任とか労働者の責任とかいうレベルの問題じゃなくなっているものだから。・・・(中略)・・・「緒方正人」や「患者」や「原告」や「被告」やというものじゃないもの。そういうものの責任だし、「人間苦」と言ってもいいですけど、そういうものを背負う。そうなったときに、追及する対象じゃなくて呼びかける対象に変わるんですよね。


緒方正人『チッソは私であった:水俣病の思想』

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