noteを続けて起きた心境の変化
先日、noteを始めて2周年記念のバッジが届いた。このアカウントでの初投稿は2月になっているが、アカウント開設は11月にしていたのだ。さらに言うと、このアカウントは2代目である。よって本当の初投稿は、もうはっきりとは覚えていないが、3年前くらいになるのだろうか。
1代目のアカウントを作ったときの私は、承認欲求を強く強く持っていた。スキがほしい。誰か私の文章を読んでほしい。あわよくば褒めてほしい。何か才能があると言ってほしい。急に才能を認められて拡散され、フォロワーが増えたりしないかな。そんなことばかり思っていた。けれど現実はそんなに上手くはいかなかった。スキはついても10が良い方だったし、本当に読んでくれているのか謎であるフォロワー稼ぎらしきアカウントからのスキも多かった。中にはきっと心から私の文章をいいなと思ってスキを押してくれた人もいただろうに、当時の私はその少数からのスキに満足も感謝もできなかった。
それどころか、他人に対して嫉妬してばかりだった。この人は当たり前のことを書いているだけなのにどうしてたくさんスキを貰えているんだ?それくらいの気づきなら私なんてもっと前に得ていたのになんでこの人ばっかり評価されるの?など。今思えば当時の自分は寂しかったのかもしれない。
そんなことを心の中で思いつつも、本当はわかっていた。他人に読んでもらえる文章を書くことがどれだけ難しいか。そもそも何のノイズもなくさらっと読むことができ、さらに内容をも簡単に理解できる文章を書くということは、非常にハードルの高い行為だと思う。てにをはの使い方、誤字や脱字はないか、「」の使い方など、書くうえでのルールはたくさんある。それらを正しく使うことができているかと問われたら、今でも私はYESとは言えない。
また、頭に浮かぶ考えや感情を文章にすることも非常に難しい。感情を盛って書いてしまいフィクションのようになったり、逆に堅苦しすぎる文章になったり。頭に浮かんでいるリズム感と実際に出力した言葉のそれが全然合わない。かっこつけて思ってもいないことまで書いてしまう。無理に明るいことを書こうとしたり、暗い人間を装ってみたり。文章を書くことがこんなに難しいことだなんて知らなかった。それでも私は書ける人間だと信じたかった。挑戦の始まりは何だって難しいのに、それを忘れてしまっていた。
そして当時の私には、想像力が足りていなかった。例えば他人が、自分にとっては当たり前のことを言っていると思ったとして、それは本当に自分にとっても当たり前なんだろうか?その人と自分は全く別の街で育って、別の人と出会い、別の言葉に触れて、別の経験をして、別の人生を歩んできたというのに、そんな他人の考えは自分にとっても当たり前なことだと言えるのか?このような考えが一切頭に浮かばなかった。別の人間同士の考えがたまたま交わっただけで「そんなこと当たり前じゃん」と思ってしまった自分の浅はかさを恥じたし、反省している。それに、いま上手な文章を書いている人たちだってきっと最初は試行錯誤の連続で、これまでにたくさんの努力をしてきたのだろう。その裏にある見えない努力を想像していなかった。または、見ないふりをしていた。
アカウントを作り直したのは、そんな自分に恥ずかしくなって全てやり直したくなったからだったと思う。
アカウントを作り変えてからも、やはり承認欲求はすぐには消せなかった。実際、最近noteの更新を再開するまでは上記のような気持ちをまだ引きずっていた。それでもまたnoteの更新を再開したいと思った自分にエールを送るような気持ちで、自分なりに2つのルールを決めてみた。
まず、できるだけ正直に書くこと。感情や起きた出来事を盛りすぎない。小説を書くならまだしも、ただ自分の経験や考えを残しておきたい、整理したい、何かよくわからないけど書きたい、などの理由で書いているのだから、変に盛ることはやめようと思った。
そしてもう一つは、自分が好きで納得できる文章を書こうということ。これは吹奏楽部時代の経験を思い出して決めたことだ。少し思い出話をさせてほしい。
高校生の頃、顧問の恩師である音楽家が教えにきてくださったことがあった。夏休みの練習の間の何日間か、その方に合奏で指揮を振ってもらい、指導してもらう。するとあるとき、急に指揮をとめて叫ばれた。「お前らなにぽけーっと吹いとんねん!お客さんに感動してほしいんやろ?勇気や励ましを送りたいんやろ?そんなぽけーっと吹いてて誰が感動すんねん!吹いてる自分らが吹きながら感動で涙流すくらいでやっとお客さんに伝わんねん!自分らが感動して吹いてるからお客さんも感動してくれんねん!」と。その言葉を聞いた瞬間も、ふと思い出したときも、これを書いている今も、ハッとした。感動は、感動させようと思ってさせるものではなく、結果的にそうなるものであるんだと。聴いてくれる人たちは、私たちが死に物狂いで練習して、本気で音楽を愛しながら楽器を奏でる姿やその音に感動してくれるのであって、感動してほしいという気持ちだけで無理やり感動は起こせないのだ。
これは共感や好きという気持ちにも当てはまると思った。人が自分の文章を読んでいいなと思ってくれるかはわからないし、それは私にコントロールできることではない。しかし少なくとも、書いている私がいいなと思っていなければ読み手もそうは思ってくれない。だからせめて、自分で読んで好きだと思えるものを書きたい。もちろんまだまだな部分もたくさんあるけれど、それが完璧になっているのを待っていたら何も書けないから、今できる精一杯を書きたい。これが今の自分の気持ちだという納得感のあるものを書きたい。上っ面のかっこつけた言葉じゃなくて、精一杯生きたうえで出てくる言葉で綴りたい。そんな文章を書けるような日々を生きたい。
このような想いで書いていると、スキの数や他者のnoteの伸びに感情を左右されることがほぼなくなった。スキの数が少なくったって、私が気に入る文章を書けたなら今はそれだけで嬉しいし、書いてきた文章たちを愛おしく思う。
そして、読んでくれる方々に感謝の思いが湧いてくるようになった。インターネット上に言葉が溢れているなかで、自分の文章を読んでもらえて、何かを感じ取っていただけるなんて、少しでも好きだと思ってもらえるなんて、奇跡のようなものじゃないかと、自然とそう思えるようになった。読んでくださる方々、ありがとうございます。
私は今日も正直に、自分が好きで納得できる文章を書く。そしてもし私の綴った言葉が世界にいる誰かに届いたなら、それを心から嬉しく思う。