# 1 私の双極性障害(気分障害)について
こんにちは、まよです。
久しぶりにこの記事書きます。
前回のつづきです。
1.夏休み明けの地獄
抑鬱状態で過ごした夏休み。
学校に行くのが怖かった。
だけど味方になってくれる人がいるから(毎日連絡くれた子)なんとか行くことができた。
急な呼び出し。
同級生の同じ部活の子から。
昼休みミーティングすることになった。
おどろいた。
味方だと思っていた子に
「辛いのはまよだけじゃないよ」
と突き放された。
他のみんなからも感情のまま怒られた。
「この世にはもっとしんどい思いしてる人がたくさんいるんだよ?」
そこの言葉で崩れた。壊れた。
そしてその経験から、私は何があっても人の辛さとか苦しさを比較することをしないと決めた。
大号泣して次の授業に向かうも、うまく呼吸ができない。
しかも次の授業は水泳だった。カオス。
遅刻していった。大号泣してたからみんなに心配されたけど、理由は言えなかった。
自分が悪いから。
なんとか授業を終え、憂鬱な気持ちですごしていたら、同じ部活の子(連絡くれた子とは別)が教室に来てくれて抱きしめてくれた。
「ごめんね、言いすぎた」
その言葉に私は救われた。
私の部活での居場所が確保された安心感があった。
先輩からも裏で色々言われてたみたいだけど、なんとか3年間部活を続けることができた。
その子のおかげだった。
2. 初めての希死念慮
とんとんと受験が終わり、私は大学生になった。
社会福祉士をめざしていた。
これは親が喜ぶだろうという気持ちが強かったから進んだ道だ。
本当は美大に行きたかったけど、「美術では食べていけない」と親に言われたのと、自分の才能のなさを知るのが怖かったのと、受験にメンタルが勝てる気がしなかったという理由で逃げた。
これもまた、無意識に責任を親に負わせていた。
真面目に授業を受けて大学2年の頃には、必修科目以外はほとんど単位を取得した。
だけど大学に通うにつれて違和感が出てきた。
ここは福祉を目指す人たちがいるんだよね?
なんでサボったり、授業中うるさくして教授を怒らせて、それを見て笑ったりする人がいるの?
と。
だんだん大学という空間にいることが気持ち悪くなっていった。
離人体験もした。
自分が今どこにいるのかわからない。
自分が誰なのかわからない。
パニックになって過呼吸になった。
これは昔小学生の頃にも体験したことがある。
強いストレスがかかると、離人感がでる。
今もそう。
そして19歳の頃初めて「死にたい」とふと、頭に浮かんだ。
怖かった。とにかく怖かった。
こんなこと思ったことなかったから。
どうしていいのかわからなくなった。
まずはスクールカウンセラーに相談することにした。
そしたら「親から自立しなくちゃ!」と言われた。
そこでも違和感があったというか、ショックを受けた。
私が悪いってことなんだ。
そう思った。
3. 初めての精神科
スクールカウンセラーに絶望した私ですが、その後も希死念慮は消えず死にたい死にたいと思う毎日で、学校に通うのが困難になってきた。
これはまずいと思った。
休むということはサボるということだからだ。
とにかくこの憂鬱感と希死念慮は自分のせいで、ただ甘えてるだけなのか、それとも病気なのかはっきりさせたかった。
精神科に行って「甘えですね」と言われたら、頑張るしかない(死ぬしかない)と思った。
そこでネットで調べて評価の高い有名な某クリニックに親に内緒で行った。
親は「そういうところ(精神科など)に行くからキ○ガイになるんだよ」というタイプだった。
だから言えなかった。
何度も辛いことを話したけど、「悲劇のヒロインぶってるだけ」「姉を見てごらんよ。頑張ってると思わない?」そう言われるだけだった。
某クリニックは混んでいたけど、予約制のためすんなりと診察してもらえた。
簡単な問診票と心理検査をして診察。
診察室には嫌悪感をもった。
パソコンをひたすらに打ち込む人。
こちらをあまり見ない医師。
そこで言われたのは
「中程度の鬱状態」
「薬が必要」
だけど初めてだったし、親に「精神科の薬は頭がおかしくなる」と言われていたため、薬の処方はやめてもらった。
その代わりにカウンセリングをすすめられた。
カウンセリングに期待をした。
これだけのお金を払うんだから。
希死念慮も消えるんじゃないか。
そんな魔法のようなことも考えていた。
2回目の通院。カウンセリングは辛くなるばかりで、お金も余裕も無くなって
とにかく辛いから薬の処方をしてくださいと診察で言った。
そしたら
「未成年の方には親の了承が必要で処方できない」
と言われた。
最初に「薬が必要」だと言ったのはなんだったのか?
そこでこの病院はもう行きたくないと思い、通院をやめた。
4. 2個目の病院
通院をやめた。つまり元の生活に戻った。
体は重く、毎朝頭痛がする。
ベッドから起き上がれない。
毎日頭痛がするので、頭の検査もしたが、異常はなかった。
学校にもいけず、3年生になると社会福祉士の実習が始まる。
その準備段階で教授に「いまのまよさんのメンタルでは、実習に行かせられない」といわれた。
ほとんど学校に行かなくなった。
ほぼ毎日お酒を飲んでいた。
吐くまで飲んだ。
そこで自発嘔吐を覚えた。
死にたいけど死ぬのが怖い。
死にたいと考えてしまうのが嫌だ。
学校に通えないのはまずい。
半年ほどして、そんな思いから新しい病院を探した。
今度も評判をみて行った。
初診では1〜2時間話を聞いてもらえて、ここなら大丈夫だと思った。
だけど予約制でなかったので、通院が大変だった。
とにかく待つ。待合室はトイレの匂いがする。
医師が診察室から直接呼びに来るのだが、その表情は疲労感が漂っていて私は気を遣ってしまった。
薬の処方をしてもらったけど、よくはならなかった。
医師の疲れ切った表情に耐えられなくなり、その病院も通うのをやめた。
5. 3つ目の病院
口コミや評価はあまり当てにならないと思い、家から近いところをえらんだ。
そこは予約制で、きれいなクリニックだった。
医師もひょうひょうとしていて、話しやすい人だった。
私はハンプティダンプティと心の中で呼んでいた。
「この薬は若い子には出さないね!」
そう言って前回の病院で処方された薬をやめ、抗うつ剤と気分安定薬(頭痛がしていたため)を処方してもらった。
飲み始めの吐き気がひどく、戸惑いはあったけど、これを耐えたら治るかもしれないと頑張った。
ここでは「気分変調症」と診断された。
「病気だからできなくて仕方ないよ!」
医師はそう言ってくれて安心した。
私が甘ったれてたわけじゃないんだ。
病気だったんだ、と。
少し救われた気がした。
色々と薬の調整をしてなんとか生活ができるようになった。
でも大学には必須科目以外はいけなかった。
卒論に関しても特別対応をしてもらった。
でもやりたいこともできてたし、アルバイトもできてたし、楽しむことができていたので良い病院に出会えたと思った。
無事卒業することもできた。
6. 家庭環境の大切さ
大学時代は私は家で完全に孤立していて居場所がなかった。
姉と母と3人暮らしだったのだが、姉とは喧嘩をし、ずっと口をきいておらず、姉と母が話してる間は私は独りだった。
母と話しても「まよは何を言ってるのかわからない」「つまらない」と言われることが多かったため、アルバイト後に飲みオールをすることが増えた。
とにかく家にいたくなかった。
家族に何を話しても否定をされていた、そう私の中では記憶に残っている。
家に居場所がないのは、本当に辛かった。
休まる場所がないのだ。
大学も周りは敵だらけだと思っていたし
アルバイト先でも感情のコントロールができず、ハサミを振り回して泣き叫ぶこともあった。
店長が変わってから、本当に気分のアップダウンが激しくなり、イライラして、号泣して、怒鳴り散らしていた。
もしも家族がよりそってくれてたなら、私は社会福祉士の受験資格が得られただろうか?
お酒に逃げずに、大学に通うことができたのだろうか?
今更考えたって仕方のないことだけど、大金を払って行った大学を無駄にしてしまったことを後悔している。
卒業式も親には言わなかったし、出るつもりもなかった。
だけど、卒業式には出なさいと親に言われて1人だけパーティどれすで参加した。
母はどれだけ悲しかっただろうか。
卒業式の日程を伝えていなかったため、親も卒業式に行くことができなかった。
後日記念に写真館で袴を着て写真を撮ってもらった。
(この頃には姉との仲も修復して仲良しになっていた)
親不孝はまだまだつづきます。
今回はこれで一区切り。
次は社会人のまよのことを書きます。
短い社会人。
無駄にした20代。
そんな記事になると思います。
まよ