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一日1ミリという目標

はじめに

2025年、早くも一週間が過ぎた。お正月がすでに遠い遠い過去のことのように思える。もはやお正月来たっけ?というくらいの遠さだ。しかしそうして目を細めて遠くを見やっている間にも、時間の針は進んでいくわけで、仕方がないので、大して進んでいない自分の立ち位置を早くも確認してみようと思った次第である。結果は、…ま、まぁまぁかな、っと呟いておく。軽く頷きながら、手の平をひらひらなんてしてみながら呟くと尚良い。

完璧主義と三日坊主

根っからの生真面目さだけでこの40年以上を生きてきた。昔、「高倉健さん並みの愚直さ」と知人に評されたことがある。健さんに申し訳ない、そこまでじゃない、と言いながらちょっとした自慢話に今はしている。そして完璧主義だと家族に言われる。この言葉の持つ否定的な影に最初は抵抗したが、今は素直に認めている。この愚直で完璧主義な性格のため、昔は目標を立てようとすると、どどんと高いハードルを目の前に立て息巻いていた。数字もキチッと設定し、絶対ここまでにとガシャンと期日を決める。がんじがらめ、まったく余裕のない、逃げ場のない目標設定。案の定歩き出そうとしたとたんに倒れる。こんなこともできない、歩き出すことすらできない自分てほんとダメな人間…と、三日坊主もいいところ、突然B型の顔をひょっこり出して、ケロッと開き直る。これを何度となく繰り返してきた。

目標を立てるのをやめる

なので数年間、新年の目標やらなんやら、目標というものを仕事以外の生活からすべて排除してみた。目標がないから新年を迎えても気負うことなく、自由だなー楽だなーとフワフワ過ごし、こうしたいなーああしようかなーという考えが浮かんできても、目標は立てない。そんな日々を続けていた。始めのうちこそ身軽さを感じていたが、あるときふと思ったのだ。私はどこに向かってるんだろう。フワフワした居心地は、自分をどこかに運んでくれるものではない。自由って、自由じゃないんだ。人生という道にしっかり足をつけて歩いていくには、道標がやはり必要なのだ。

もう一度目標を立てる

というわけで、今年からまた目標を立てることにした。さすがにもう自分の性格は受容できているので、どう歩けば先に進めるかをよく考え、この性格ならではの歩き方で無理なく歩いていけるようにした。簡単に言えば、どんなに小さなことでもいいから今の自分にできることだけを、ただただ続けていくだけなのだ。
目標自体もかなり小さなもの。毎晩寝る前におやすみなさいとつぶやくとか、朝起きて顔を洗ったら無理矢理でも一瞬口角をあげるとか。誰に発表するわけでもない、自分との約束、せめてそれぐらい、そんなかんじだ。

一日1ミリ

いつだったか、イチロー選手が「一日を大切にしない人は十日後もそのまま変われずにいるけど、一日の大切さを知っている人は一日1ミリ前に進めるように努力し、十日後にはずっと先へ行くことができる」というようなことを言っていた。そう、一日1ミリでいいんだ。生真面目な人や、自分に厳しい人ほどこれを意識するだけで違ってくると思う。どんな日でも、その一日の中での1ミリに注目して、また明日につなげていく。

毎日1ミリだけ頑張って、自分を褒めそやす日々。もはやこれが目標なのかもしれない。

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