日々是メモ 「育児の悩みからついに仏教に触れた話」
5月16日日曜日の気付き
・植物 ここ2日で一気に散歩道の雑草の背丈が伸びたので驚いている。いよいよ季節は夏へ向かっていく感じか。
・読書 なし
・人間 朝のゴールデンタイム。朝4時とかに起きて自分の時間を確保することが私のささやかな幸せとなりつつある。朝だ、朝しかない。
・ニュース 世界情勢と日本国内の刃物で刺す事件。
・エンタメ 朝5時に見たNHK教育の番組。
『こころの時代〜宗教・人生 瞑想でたどる仏教〜心と身体を観察する2』を見た。仏教の先生(ブッタ専門の先生?)だけでなく、元オリンピック陸上選手の為末さんがスポーツでの経験を一緒に話してくれるので、仏教を身近に置き換えられる。勉強になる。育児に詳細。
・育児 夜泣きを対応することはや2週間ほど、気づいたことがある。我が子、イヤイヤ期に入ってきている!ということだ。
我が子はまだしゃべらない。そのため、「イヤ!」とは言わないのだが、このところのクセの強めな夜泣きと、頑なに服を着ないという行動を見て、イヤイヤ期かもしれないと思ってきたところである。ついにきたのか・・・
我が子は、2日前から急に「服を着ない!」とギャン泣き抵抗を1日に何度もするようになった。
保育園に行く前、ご飯で汚れで着替える時、お風呂の前後、寝る前。
家にいる時は基本的に全裸を要求する。
原因がわからず、こちらの予定通りにもいかないので、これには本当に困った。本当に困るというか、本当に腹がたつのだ!
「服を着ないと寒いよ」「風邪ひいちゃうよ」など、絶対真っ当な理由を簡潔に伝えて着替えてもらおうとしても、絶対に着ない!全力で対抗してくるので、ある程度私も時間が経ってくるとイライラしてきて力尽くで無理矢理着せるしかない。この、無理矢理着せている時の、我が子の絶望感あふれる泣き顔を見るのが、心底イヤになるのである。あなたのためにやってるのに、そんな殺人犯を見るような目で見られるなんて。「行くも地獄、戻るも地獄・・・」と心の中で思った瞬間もある。また、単純に、力尽くの作業は本当に疲れるのである。奥歯かみしめて服を着させている。すでに私の右奥歯はヒビが入ってしまっているのに。いつか折れるんじゃないか。
先日、「稲盛和夫の働き方」を読んだので、怒りの感情の原因は”欲求”だと知っていた私。私はなぜ幼い我が子にこんなにも腹が立つのか(しかも急激に怒りのピークに達してしまう)考えてみたのだが、器の小ささ故か、考えているとまた怒りが蘇ってきてしまう。怒りにとらわれるのがイヤで、本当はまだまだ眠りたかったのだけど、朝5時に寝るのを辞めて、起きて一人の時間を過ごそうと思った。
テレビをつけたらまた、何かヒントを得られそうな番組があると思い、片手間でこちらの番組見ていた。このテレビ、ブッタの内容である。
朝方、怒りで囚われていた私はまた助かった。内容の一部を紹介。
四諦
四諦は、仏教が説く生きる真理(苦諦、集諦、滅諦、動諦)である。
苦諦(くたい)とは、迷いの生存は苦しみであるという真理のこと。人生は苦であるという真理。
集諦(じったい)とは、苦しみの原因は欲望であるという真理。
滅諦(めったい)とは、欲望がなく苦しみのない理想な状態。苦しみの消滅の心理。
道諦(どうたい)とは、滅諦に達するために必要な八正道のこと。
育児を通して、昨年の苦しい時間を経て、私は友人たちによくぼやいている言葉があった。「人生はずっと修行、苦しいもの」。これ、まさに四諦の一つ”苦諦”じゃないか。私は実体験でこれを悟っている!!と、テレビを見ながら静かに歓喜した。さらに”集諦”もまさに昨日知って今経験中である!四つのうち二つも学んでいる!!とさらに喜んだ。おそらく嬉しい理由は、私の”知識欲”を埋めてくれて、それだけでなく実体験で学べていると分かることが嬉しいからだと思う。変なやつだな気持ち悪いなと自分で思いながらも、怒りを忘れることはできたので結果オーライである。
ブッタは瞑想の前に、「身の回りの環境を整えることが前提にある」ということを説いているとのこと。
身の回りの環境を整えることとは、具体的にいうと”習慣を整えること”だそうだ。さらに、誰かに強制されて行うものではなく、自ら進んで守っていくものだそう。そう、ルーティーンである。(為末さんが言っていた)これができていると修行がしやすいらしい。
我が子のイヤイヤ期への自己の確立(成長)という変化の渦中で、まだ私たち親子の習慣は立て直しの状態に入った。今はまた、新しい習慣を再構築する段階なのだきっと。それが整ってきてから、修行の道へ入る。修行の道の前ですらあるとすれば、今はそう、例えるなら荒れ狂う大海原!ということで、ほんと、あまり考えすぎないようにしようと思う。「大海原の舵取りって、やっぱり難しいなぁ〜!」と思えるくらいが理想だ。
我が子のイヤイヤに対応している時は、明日のことなんか考えられずに目の前の”今”をどうしよう!状態だし、「お前がやるか、私が死ぬか?」くらいの切迫感があるので、大海原を例にしたのは良い例だと思った。
自我の芽生える前の人間が相手なのだから、相手は人間だと思わないこともいい対応策かもしれない。無理矢理服を着せているときに「自分より力の弱い人間を、力でねじ伏せている」感じもして、イヤだったのだ。私はそんなやつになりたくない。我が子が大海原とイメージしたら、崖の上のポニョのポニョが浮かんだ。そうか、我が子はポニョなのか。だとしたら私はそうすけにすらなれていない。そうすけのように素直に冷静に、私のポニョに向き合いたいと思う。まだ我が子は、イヤ!と言えないことが、私にとってサプライズかもしれない。ありがとう神様。これでイヤイヤ言われていたら、もっとへこたれていたに違いない。
イヤイヤ期に突入したご家庭があれば、ぜひ育児をしている身の回りの人には「いつも以上にねぎらいの言葉のような共感の言葉のシャワーを降らしてあげてほしい。私が今自分の気持ちを客観的に考えた上で、私が私のそばにいたらしてあげたいことは「労いと共感」である。共感してくれる人がいるだけで、頑張れる力になるだろうと思う。共感である。イヤイヤ期育児に一緒に参加してくれて、「大変だ」と同じ気持ちになって、同じように悩んでくれるのも、とても良いと思う。ただ、「いつもありがとう」って思って何もしないのは意味がない。例えそう思っていなくても、言うんだ。演技しろ。頑張る力もイヤイヤ期のポニョを相手にしていると、一瞬でエネルギーが消えるんだ!伝えろ!伝えるんだ!共感の言葉のパワーでエネルギーを供給するんだ!と伝えたい。ショーシャンクの空に、のパッケージくらいの共感の言葉の雨を降らせろ〜!