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【書評エッセイ】ハードボイルドな紀行文。
今回は「月と六ペンス」について。
この作品を「ハードボイルドな紀行文」と呼んだ人はいないと思うが、そう呼ばせていただく。
ハードボイルドの私なりの定義は、男の生き様を描いた作品。
紀行文は、場所の移動がもたらす変化とその場所の空気感を描いた作品。
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主人公のストリックランドは、ロンドンでの株式仲買人という仕事と妻子を置き去りにして、突然パリに絵を描くために移り住む。
ストリックランドが一枚の絵を完成させることはめったになく、彼にとって「終わる」とは、絵を描き終えるというより、自分を突き動かした一瞬の情熱を燃やし尽くすというのが正確かもしれない。描いた作品など、心に宿っている幻に比べれば無にも等しく、だから決して満足することがなかった。
ストリックランドはパリで色々な人に出会い、揉め事を起こしながらも、それらとは完全に別世界で生きている。
絵を描くこと以外には何の関心もない。
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やがてパリを離れ、マルセイユを経て、タヒチにたどり着く。
ストリックランドの住んでいる場所は、まさにエデンの園だったな。うん、あの場所の魔法のような美しさを、ぜひ君にも見せてやりたいものだ。この世から完全に隔離されていて、頭上には青い空、周囲はうっそうとした木また木だ。色彩の宴だな。芳にして涼。言葉では、あの天国を言い表せん。そんな場所にあいつは住んでいた。世界のことを忘れ、世界からも忘れられ、ひっそりと住んでいた
ずっと絵を描いている。
あの山の中には完全な静寂があった。物音一つない。夜の空気は白い花の匂いでいっぱいで、あまりに美しすぎて、魂が肉体という牢獄にとどまるのに堪えられなくなるのではないかと思う。霊的な大気の中に遊離していきそうで、死が愛しい友人に見えてくる
どんな絵を描いていたのか?
どんな色使いだったのか?
どんよりと暗い青がある。ラピスラズリから精巧にくりぬいた碗のように不透明。だが、震えるような光沢があって、内で神秘なる生命が鼓動している。腐敗した生肉のように醜い紫がある。だが、その内部から放射される情熱は、官能的な光となって、ヘリオガバルス帝にまつわるローマ帝国頽廃の記憶をおぼろに映し出す。赤はヒイラギの実のようにけたたましい。イギリスのクリスマス・雪・談笑・子供の愉悦の色だ。だが、魔法で懐柔された。いまや鳩の胸毛の感触、あの気絶するほどの柔らかさに変わっている。深い黄色が不自然なほどの激しさで緑色の中に消え、その緑は春のようにかぐわしく、山の渓流を光りながら下る水のように穢れがない。
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やがて病気にかかり目も見えない中、家の壁に巨大な壁画を完成させ、死を迎える。
死んだ後には家を焼くように伝えており、実際に家は焼かれた。
主人公のモデルはゴーギャンと言われているが、それはどうでもいい。
ロンドン・パリ・マルセイユからタヒチへ、人生の旅をしたストリックランドという男の激しすぎる生き様と彼を取り巻く普通の人々の物語だ。
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海外の翻訳作品は訳者についても必ず触れるべきだ。
土屋正雄さんの訳はとても読みやすかった。
「読みやすかった」は、翻訳に対する最高の褒め言葉だと思っている😎
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