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【書評エッセイ】ハドリアヌス帝、ユルスナール、そして須賀敦子。
先日読んだ「人間主義的経営」で筆者のブルネロ・クチネリが、ロールモデルとしていたのは、著名な経営者ではなく、なんとハドリアヌス帝。
彼がハドリアヌス帝の統治に感銘を受けたのは、マルグリット・ユルスナールの著作「ハドリアヌス帝の回想」による。
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さすがにこの本の日本語版はここでは手に入らないので、私が手に取った本は、須賀敦子さんがユルスナールについて書いた本「ユルスナールの靴」。
約1年ぐらいの周期で須賀さんの本に帰ってくる。
「来る波に乗る」読書スタイルなので、自分から須賀さんの本を求めるわけではないのだが、須賀さんの本がめぐって来る。
今回も約1年ぶりにめぐって来た。
前回読んだ時に書いたnoteがこちら☟
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本の内容は読んでいただくとして、須賀さんの本好きにとってはたまらない箇所をいくつか引用させていただく。
きっちり足に合った靴さえあれば、じぶんはどこまでも歩いていけるはずだ。そう心のどこかで思いつづけ、完璧な靴に出会わなかった不幸をかこちながら、私はこれまで生きてきたような気がする。
あしたはジェノワに入港するという日の夜だった。イタリア本土とシチリア島をへだてるメッシーナ海峡を船が通り抜けるとき、大きくはない町の明りが、乾いた八月の空気のなかで手をのばせばとどきそうなところに黄色くまたたくのが見えた。メッシーナ、私はあたらしく覚えたばかりのやさしい音を、なんども口のなかでくりかえした。こうやって、あこがれつづけた大切なものに、じぶんは一瞬、一瞬、近づいて行く。いま思えばカラブリアの沖のあたりをゆっくりと航行していた船の甲板で、私は、あやうい蠟燭の炎のように揺らぎつづけるじぶん自身の暗いたよりなさを、刻々と離れてゆく街の明りと見くらべていた。
ソクラテスやプラトンも、ラファエッロの「アテネの学園」にある重々しいふぜいではなくて、オリーヴの枝を吹きぬける風みたいにここにあらわれ、風のように教えていたのではなかったか。
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あとがきを「ハドリアヌス帝の回想」の訳者である多田智満子さんが書いているのがうれしい。
久しく祖国を離れ、自分をノマッド(放浪の民)と感じていた彼女が、古い貴族の裔でありながらやはり一種のノマッドであり、帰るべき故郷を失ったユルスナールの生涯に、自分と共通する痛みを感じとっていたからこそ、このユニークな作品が生まれた、ということができよう。
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「ハドリアヌス帝の回想」は紙の本で読みたい。
今回日本に立ち寄る際に、手に入れることができるだろうか?
残りの人生の時間をたっぷり使って読みたいと思うそんな本に出会えたことに感謝したい。
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