恋願う
両手で、市販されているごくありふれた封筒を握っていた。
皺にならないように、傷が入らないように、そよ風が頬を撫でるくらいの微かな力で。だけども飛ばされないように、風よりも強かに。
封筒の中にはひと月以上も書いては消して、書いては丸めて捨ててを繰り返したのちにようやく書き終えた便箋が一枚。
何度も推敲したんだ。なんて書いたかは一字一句逃さずに脳裏に焼き付いている。
これでいい。これしかなかった。
僕の気持ちが勝手に喉を飛び出る前に。
僕の手が、すれ違いざまにあの人の腕を掴まないように。
これで、いいんだ。
なるべく音が立たないように図書室の引き戸を開けて、薄氷の上を歩く気持ちで廊下へと滑り出る。生徒はおろか、先生の大半も帰ったあとだ。それでも今は誰にも見つかりたくはない。教員室の前を通らないように、図書室のそばにある階段を手早く昇る。
ブレザーなんてとっくに部屋の飾りになって埃を肩に積もらせている。
無造作に捲ったワイシャツに、通り過ぎると香る制汗剤の匂い。
心臓が飛び出ないかしんぱいになる。
そんな季節だ。
手紙を書こうと初めて思ったときはまだコートを着て、マフラーだって手放せなかった。ああ、それがさ、ずるいよ、
こんな季節だ。
こないだ机の上に置かれていた人気の制汗剤、ちらりと盗み見て、同じものを買ってしまったなんて、言えない。言えないね。手紙にだって書かなかった。学校でつける度胸もないから自室でひっそり眠ったままだ、きっとこれからも。
教室は朱くてぼんやりとして見えて、なんだか現実と幻の狭間にきた心地になった。
夢でもいい。夢ならきっと渡せたんだ、あるいは僕の前で笑うあの人がいたんだ。
大体の運動部もとっくに帰っている。いつもは先生が怒鳴るように声を上げないと一番後ろの席には届かないほどに雑然としている教室は、誰かの笑い声が残響で聞こえてきそうな異様な静けさを纏っている。
ひとつ、ふたつ、腰の高さほどもない机を通り過ぎる。あの人の席に近づくたびに鼓動が跳ねる。
だっていつもは側まで寄らないから。話に行く理由がないから。
授業のペアワークが、一緒になればいいと小さな祈りをする毎日だから。
席替えで前後になれたらいいなとか、班が一緒だったらいいなとか。
でも体育は、僕のどんくささを近くで見られたくはないからさ、とか。
煩い教室で、いつもひとり祈りを捧げる毎日だ。
とても遠くで、ひそやかに。だから、
今だけだ。
聖域のような、あの人の生活圏に踏み入るのは。
鞄を下げたまましゃがみこむ。
机の中は教科書が数冊、丁寧に積まれている。その右側には文具が少し。整然とそこに在った。性格が透けて見える。
普段はなんだか、あっけらかんとしていて、クラスの笑顔を総取りにするようなあの人は。
周囲の人間を誰一人ないがしろにしない、朗らかなあの人は。
誰が書いたとも分からない手紙を、読んでくれるのだろうか。
宛名も送り主も書かなかった。
どちらでもいいや、と思った。
誰のことも笑いものにしないあの人にだからこそ渡せるんだ。
その後のことは考えても仕方ない。
あの人が、決めることだ。
背中がちりりと焦げ付く感覚を得た。
もっと僕が、違えば。
違えば?
後ろめたさなんかなく、好きだと言えたら、良かったんだろうか。
それすら許されないような気がしてしまうから、こうして日常の喧騒が沈みかける頃の教室を居心地が良いと思ってしまう。
教科書の上に持っていた封筒を置いて、ぱっと離れる。
忘れ物を取りに来ただけだと言い訳が出来るように。
一度それとなく辺りを見回す。相変わらずがらんとしていた。鞄を担ぎ直して、何事もなかったみたいに教室を離れる。
届けばいい、なんて、エゴだけど。
ちょっとでも手紙の送り手が誰なのかで授業が身に入らなくなってほしい、なんていうのも僕の身勝手だけど。
でも絶対に気づかないってわかってるから。
僕からだなんて微塵も思いもしないって、知ってるから。
今日だって何の日かわかんないんでしょう。
でもいいんだ。それでいい。
僕らの生きるこの世界じゃ、その方がいいんだって。
また祈りの日々がはじまる。それで、いいんだ。