優しい嘘がつけたなら、あなたの気持ちを受け取れたなら
バスは物語が生まれる場所だ。今の家に引っ越して4ヶ月。人生で初めて日常的にバスを使う生活をし始めてから、そんなことを感じている。
朝8時くらいのバスに乗ると、そこには戦いへ向かう人がぎゅうぎゅう詰めになっている。
その人たちはほとんどがスマホを触っているが、時々英単語帳や電子新聞を眺めている人もいる。大抵が一人だ。30分前、家を出る前の親子の関係から解き放たれ、労働者や学生の顔に変わる場所。それが、バスだ。
朝9時くらいのバスに乗ると、そこにはおばあさんおじいさんが多く見受けられる。
歩いている様子を見ていると、赤の他人だけどふと介助したい衝動に駆られる。でも本人にとっては、それが日常なのだ。自らの意思で、脚で、一歩一歩進まなければならない。高齢化の波がグッと近くに押し寄せる感覚に襲われる場所。それが、バスだ。
東京に住み始めてからというもの、ここまで誰かの日常を想像したことはなかった。
同じ交通機関といえども、電車で隣に座った人の物語を想像したことはないし、アパートの隣に住んでいる人がどんな人でどんな日常を送っているかすら考える機会などなかった。
バスは人との距離が近い。そして、チーム戦だ。
通勤ラッシュの時間は、バス停に止まる度に少しずつバスの後方へ身体を動かし、目の前の席の人が途中のバス停で降りる気配を感じたらどこかしら身体を逃す場所を探す。
乗り、降りる。ただそれだけの目的の、15分くらいの旅なのに、その旅の目的はお互いを思いやる気持ちがないと達成できない。
そして、お年寄りが多く乗り、降りる路線だということが分かってきてから、このチームでの私の役割は立つことだと感じるようになった。言い換えれば、私ぐらいの若い年齢の人がバスの中ですべきことは、座るべき人に席を取っておくことだということだ。
ただ、この立つことに関しては、立たねばという義務感もありつつ半分は「立ちたい」という欲求でもある。運動不足なここ最近の身体を、せっかくバスに乗るならば立つという行為で動かしてやろうという思惑だ。
ある昼下がり、この日も私はいつもと同じように立っていた。バスの真ん中あたりの、進行方向向かって右の窓に向かって、椅子のちっこい半円の手すりをなんとか掴みながら、申し訳ないけれど親切とはいえない標準的なバスの運転に揺られながら、私は窓の外を眺めていた。
そのとき、
”つんつん”
とお尻を突かれたような気がした。
あれ、後ろの人に何か迷惑なことをしたかなと思い、振り向く。でも、立っている人はいない。バスが止まっている訳でもないので、後ろを通りたい人がいるはずもない。
気のせいか、と思って、窓へむき直そうと思ったとき、目線のすぐ先の通路に沿って横並びの席に座っているおばあさんと目があった。
「ここ、空いてるよ」
ああ、おばあさんだったのか。さっきのつんつんは。そう思いながら「あ、大丈夫です!ありがとうございます!」と言った。
「そうかい…」
おばあさんは少し伏せ目をしながら、私から目を逸らした。よく見ると、おばあさんの2席隣には、連れ合いらしきおじいさんがいる。
夫婦なのかなと思いつつ、私は窓の方を向き直した。ただバスに揺られるほど、おばあさんの言葉が疑問に思えてきた。
おじいさんの隣に、なぜ座らないのだろう。しかも、2人の間になぜ私を座らせようとしたのだろう。
席が空いているのに立っている私が、不憫に見えたのかもしれない。たしかに、別に混んでいる訳でもない車内で一人立っている若者がいたら、私が同じ立場でもそう声をかけたかもしれない。ただなんとなく、理由はそれだけじゃない気がした。
次のバス停にバスが止まった。それでもまだ、おばあさんの隣に人は座らない。空いている席に座りやすいように、おばあさんはスッと身体を端に寄せたように見えた。
おばあさんは、誰かに座って欲しいのだ。
立っている私がかわいそうとか、大変そうじゃなくて、おばあさんは誰かが隣にいてほしいのだ。
そう見えるようになって、私はもう一度おばあさんに話しかけようかとそわそわしていた。ちょっと疲れたので、座ってもいいですか?なんて可愛い嘘をついて、おばあさんの隣に座ろうかと迷った。
そしたら恐らく、おばあさんは私に話しかけてくるだろう。
「これからどこに行くの?」
「何歳?」
「どこから来たの?」
きっとおばあさんは無邪気に、話をしてくれるだろう。
嘘をつくべきか、つかないべきか。
窓とおばあさんを交互に見ながら迷っているうちに、またバスが止まった。おばあさんの隣に、40歳くらいの男性が座った。
ああ、良かった。誰かがおばあさんの隣に座ってくれて。
一方で私の中には、小さなしこりが生まれた気もしていた。おばあさんが渡そうとしてくれた何かを、受け取れなかった。受け取ることを拒否してしまった。そんな後悔が、おばあさんを見る度に膨らんでいるように思った。
自分にとって、立つという行為は他の誰かが席に座る機会を守ることだと信じていた。今だって、そう信じている。
だけど、座ることが誰かと繋がるきっかけになることだってあるのかもしれない。
「よかったら、この席をどうぞ」
「私の隣、空いていますよ」
誰かと私の物語が交わるきっかけが、座っていることから生まれることだってきっとある。始めから立つことを、バスでの過ごし方として選択していたら、この交わりは生まれない。立つことが、正義と思うべきではない。
バスは物語が生まれる場所だ。
それはすなわち、誰かの物語と私の物語が交わる種を、集め、拾う場所なのだ。私が始めなければ、物語は生まれない。
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