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谷川俊太郎質問箱

"質問"という行為そのものは日常的に無意識で誰もがやっている。
それを詩人に聞いてみたらどんな答えが返ってくるのか。

webサイト「ほぼ日刊イトイ新聞」で2006~7年に連載された、読者が谷川氏に質問を投げかけそれに答えるというやりとりを収録した一冊。
谷川俊太郎氏といえば小学校の国語の教科書を真っ先に思い出す。有名な詩人である、ということ以外パッと頭に浮かばない自分が少し恥ずかしい。国語の教科書は授業以外でも好きで読んでいたはずなのだが…。

質問の内容は多種多様。性格の悩み、恋、社会問題、科学的現象et…、子供から中高年までの色んな人の疑問が投げかけられている。それに対する谷川氏の回答は「うーん、なるほど」となるような、哲学思想を感じたりひと捻りを加えたものばかりである。


個々の質問と回答については読んで味わってもらうとして、質問といえばで自分が考えたことを今回は書こうと思う。

自分は人に質問するのが苦手だ。
仕事で分からないことがあると「◯◯ってどうやるんですか?」と聞けばいいものを、どうしてか言葉に出せない。別に分からないのが恥ずかしいとか聞くのが怖いと思っているのではない。でも頭に浮かんでも口から言葉が出てこないのだ。

それから他人へのパーソナルな質問もダメである。たぶん相手は聞かれたところで困らないことが大半だし、答えたくなかったら曖昧に返してくれれば自分も察するだろう。それを重々承知してなお「これ聞いたら失礼かな?」「気を悪くさせないだろうか」とグルグル頭の中で反芻し、そうしてるうちにタイミングを逃して聞けない。
疑問をもってから口に出すまで5分くらいは脳内フル回転で考えているのだ。いつからこんなに考えるようになったのだろう。

そんな質問できない自分が身に付けたのは、相手の行動や話から推察する力である。仕事ならいわゆる"見て覚えて"きたし、自分とやほかの人との会話の内容から繋ぎあわせて相手の様々な事情を(たぶんこうなんだろうな)と想像する。もう何年もそうしてきたから今では大体の推察は当たるようになった。
自分なりの処世術である。

逆に、人から質問されるのは大歓迎である。聞かれたことにならすんなり答えられる。自分が聞けない分、質問で話題提供してもらえるととても有り難く感じる。
そして自分が質問されたのと同じ事ならすんなり聞き返せるので、自分の疑問も解決したりする。

それでも、いつかは不安なく質問できるようになれたらいいなと思い続けている。


さて、本に戻ろう。
あとがきばなしでの糸井重里氏との対談で谷川氏はこんなことを語っている。

訊いてよくない質問はありえないってのがぼくの立場です。そして、どんな質問が来ても、答えたいものは答えるし、答えたくないものは答えないってのも、ぼくの立場。だけど、自分が答えにくいものほど答えたくなります。

図らずも、自分の悩みにひとつの答えが与えられている一文だ。
対談の中で谷川氏は、できれば詩を読んで笑ってほしいし、質問への答えでも同じだというようなことを話している。
誰かを安心させたりクスッと笑わせられる言葉を届ける、それが詩というものなのかもしれない。

改めて谷川氏の作品に触れ、そのエッセンスを受け取りたいと思った。


最後にひとつ、自分の中でとんと懐に落ちた回答を紹介したい。

でも人生には適当ですまないことも起こりますよね。そのときは「もういいや!」はよくないと思います。
「もういいや!」で自殺してしまう人もいるんですから。
「もういいや!」に代わるものとしてぼくは「ここらでひと休み」をおすすめします。


出典:『谷川俊太郎質問箱』谷川俊太郎 (発行者:糸井重里)
   ほぼ日ブックス

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