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名は知れ渡っても、態度は無名。


「おれは駿河湾産しか売らないよ。静岡でとれるサクラエビが一番うまいって知っているから」
 
昨年秋、静岡市清水区で5代続いたサクラエビ加工業者が店を閉めた。販売するエビが底をついたためだった。3年前、記録的な不漁に陥った静岡県の名物「駿河湾産のサクラエビ」。以降、価格が高騰し、代わりに台湾産の存在感が増している。最も信頼していた取引先から「安価な台湾産がほしい」「おたくが扱わないならほかの業者に頼む」と言われ「もはやこれまで」と腹をくくった。「駿河湾で育まれたサクラエビは生ならぷりぷりで甘く、干せばただ香ばしい。エビの味しかしないんだ。
(静岡新聞)

このところ、長年の積み上げや基礎スキルのような従来型の価値観では測りきれない現象があちこちで起きているようで、その道の熟練が立場をなくすなんてことも珍しくないようです。

そんな、熟練顔負け現象ですが、みなさんの身近なところでは、SNSでの素人ガチ勢の奮闘で一度は目にされているのではないでしょうか。

では、なぜそんなことが起きだしているのかというのが今回のはなしですが、一つの考え方として、技能、技法の完全ビジュアル化がなされた、という点があげられると思います。

例えば、あなたが、なにかはじめよう。そう思いたったとして、それを実行すべくお手持ちのスマホにそれらしいワードを二つ、三つ打ち込んだとします、すると、スマホは即座にそれを作り上げるための懇切丁寧な手引書を映像で用意してくれることでしょう。そして、あなたは、その手引書に基づいて手を動かしてさえいれば、たちまち、それをこしらえることができ、数回程度こなすうちに先行技術にはない新規性を含んだ膨よかな一品を形作ることさえできてしまうのです。
それは、とりわけ、料理なんかを想像していただけるとわかりやすいかもしれません。

しかし、だからといって、それが熟練の作品をその界隈から締め出すほどの理由になるか、そんじゃあ、このままでは、熟練は素人からのホロコーストみたいなものにあうかと言うと、まあ、それは、そんなことにもならないのかなと思います。
なぜなら、研鑽に裏打ちされた熟練の作品の質は圧倒的であり、成り立ちを学ばぬ素人のそれと本質的な良し悪しという点で競うなんてそもそもできるはずがないからです。(グッドデザイン賞と名の付いたものがその道のメインストリームにならない、というあれです。)
では、どうして立場をなくす熟練が後を立たないのかというと、それは、作品の精度云々ではなく作り手の内部構成、つまりは、熟練自身の振る舞いに盲点が示されているのではないでしょうか。

みなさんさんは、相手との間に勾配をつけて、新しい意見なんかを取り入れると俺の品位が下がる。と門前払いをしたり、俺のはこうで、こうで、こうだから、こうなんだ。とターンテイキングを拒んで周りを抑え込んだり、あいつのあれが駄目だ。と蹴散らして終わらせてしまう。そんな熟練の姿を目にしたことはありませんか?
僕はあります。熟練なんて、展開、分解に疎く、振り幅が狭くてナンボそう思ってさえもいます。

つまり、熟練が、現時代においても一面性でしか価値の説明をつけられずにいるところに、その分野には無かった素人の膨よかな一品が、デザインを纏い雪崩れ込んで、精度、の価値を構成要素の一つに置き換えてしまう。
これこそが熟練が窮地に立たされる理由なのだと思います。

まあ、もっとも、熟練が、もはやこれまで。と腹を括るその姿もまた美しいのでしょうけど。

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