iso 8112

あれよあれよと39歳に躍り出たおじちゃんです。 おじちゃんには6歳になる男の子がいます。

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あれよあれよと39歳に躍り出たおじちゃんです。 おじちゃんには6歳になる男の子がいます。

最近の記事

名は知れ渡っても、態度は無名。

このところ、長年の積み上げや基礎スキルのような従来型の価値観では測りきれない現象があちこちで起きているようで、その道の熟練が立場をなくすなんてことも珍しくないようです。 そんな、熟練顔負け現象ですが、みなさんの身近なところでは、SNSでの素人ガチ勢の奮闘で一度は目にされているのではないでしょうか。 では、なぜそんなことが起きだしているのかというのが今回のはなしですが、一つの考え方として、技能、技法の完全ビジュアル化がなされた、という点があげられると思います。 例えば、あ

    • 火曜日のよる。

      3日目のカレー鍋に少しの水を足し火にかけて温まった頃合いで掬って皿に盛る。付け合わせと副菜の小鉢を冷蔵庫から取り出しラップを外す。僕のグラスと彼のコップに麦茶を注ぎ、匙と箸をテーブルに揃えたところで、リビングのソファでとアニメに夢中の彼に声を掛ける。「ご飯だよ。」  声が耳に入るなり立ち上がるものの、顔はテレビ画面に残したまま。僕は、それを尻目に、炊飯釜をさっと洗い、空になったカレー鍋を適当に流して水を張り置く。二度目の呼びかけで、後ろ向きでのろりと動だし椅子と食卓の隙間に

      • 月曜日のあさ。

        可燃ゴミのビニール袋の口を縛りながら、そろそろ、行こう。そう、催促をすると物分かりの良い彼は、食べ終えた食器を流しに運び、もぞもぞと着替えを済ませ、玄関で僕を待っている。おまたせ、と玄関のドアを開けて、彼の寄り道のせいで実際よりだいぶ遠くなる保育園へと歩き出す。トウカエデの街路樹が並ぶ緩やかな上り坂の途中、すっかり反応が鈍くなったカードキーをかざし、扉を開けて園舎に入る。毎朝、決まった数足の靴だけが置かれたスカスカのシューズボックスに無言で靴を置く彼。階段を上がり、保育室の前

        • [蒼生 No10.]

          そりゃあ、夜空を一気に輝かせて、見上げる沢山の笑顔を照らす打ち上げ花火は素晴らしいですよ。でも、大切な数人の笑顔だけを闇から浮かび上がらせる手持ち花火だってだいぶ素敵だと思うんですよね。 見上げるにせよ、見下ろすにせよ、眩いほど闇夜が色付くあのスペシャル感は変わらないのですよ、結局のところ。 今回、花火を取り上げましたが、これって、コロナ自粛の状況下のいろんな事にあてはめることができてしまうと僕は考えています。 例えば、外食が好きな人は有名店のお取り寄せを試してみる

          僕にとっての救いのはなし。

          中国から帰宅すると郵便受けに憶えのない宅配物の不在通知が入っていて差出人の欄を見ると写真展の主催者名。どうやら、写真展で展示していただいた作品を送ってくださったようで、ああ、そうか。とその日のうちにドライバーに連絡をして引き取りに。 持ち帰ってみたものの、じっくり見よう。これが続きに続いてもう一ヶ月。 日に日に積み重なる荷物の中、一月前と変わらぬそれを見て、じっくり眺めよう。を盾にして目をそらし続けている自分のいやらしさに気付き(認め)、そういえばと、写真展前に書きっぱな

          僕にとっての救いのはなし。

          生きてりゃ丸儲け。

          4月も後半、政府の発した非常事態宣言から二週間が過ぎても、尚、増えゆく感染者数の報告をニュースで目にしながら、感染後、重症化された方はもとより、軽度の症状の方にのしかかる、「どれだけの人に迷惑かけちゃうんだろう。」といった精神的重圧は相当なものだろう。なんてことを考えている。 他者との不要な接触を避け感染拡大に歯止めをかけることは、社会としての正常値を取り戻すための最適な手段であるが、同時に、感染被害者の心痛をやわらげる唯一の方法でもある。   しかし、それは、社会の一員

          生きてりゃ丸儲け。