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かつては仕事が好き族だった
働きたくな〜い、すぐ会社辞めたい〜
というわけではないけど。
前と比べて仕事の熱量が下がったなあと日々感じている。
真面目に仕事はしているものの、仕事が超好きだった時と比べて、やっぱり「こうしたらよくなるのでは?」
とか
「あの時のあれ、やっぱりこうしたいな...明日話してみよ!」
みたいなアイデアが就業時間以外の時間帯に閃く、とかが全然なくなった。例えばお風呂入っているときにふと過るとか。
帰りの電車での自己嫌悪や脳内反省会も長らく開催されていない。
明らかに仕事の優先順位下がっている。
前より心中平和であるのでそれが現状、良くないことだとも思ってない。
けれど、たまに熱量の違いを感じると申し訳なく、縮こまってしまう。
以前仕事が心底楽しかった時は、今の自分のように熱量のない人や派遣やアルバイトなど別の働き方を選択している人の気持ちがわからずにいたが、こんな気持ちだったのだろうか。
その時は
「まあ、いろいろな人生があるよね。」
頭で思いつつ、心では
『なんでこんなに適当な仕事をするんだろう』
『なんで細かいところまで気配りが行き届かないのだろう』
『ちょっと考えればわかる質問をしないでほしい』
など沸々と湧き出るものがあった。
自分と違う生き方をする人を分かろうとする気持ちがなかったわけではない。
けれども、暗に、声を荒げることもなく、彼ら、彼女らとは相いれないものとして線を引くことを「いろいろな人生」という言葉に任せていた。
今、自分がかつて分からなかった人たちのほうにいる。
今の自分は私生活が第一で、仕事は生活するためのある種のツールであり目的ではない。給料の範疇で責任は果たすがプラスアルファはない。たまに気分で仕事を張り切ったり、サービス精神を出すことがある。
仕事が人生の目的だった頃。思い出すと、私は仕事を《人生の目的》として画鋲で心にとめていた。
「ビンには、大きな石からいれなければならない。」
小石や砂を入れてからは大きな石は入らないのと同じように、人生においても重要なものに時間を使わなければ後悔することになりかねない。
有名な「大きな石理論」。自分にとっての大きな石は、確かに「仕事」であったのだ。両親がともども仕事人間だったので、ごく自然に、仕事は人生そのものなのだと思っていたし、実際仕事も楽しく成果も出せた。社内で一目置かれ、心地よい時間を過ごしていた。
転機が訪れたのは前の職場で顧客からいわゆるカスハラを受けたから。
その顧客からのメールを見ると体調が悪くなって、打ち合わせ前には動悸がして、日曜日の夜にはお腹が痛くて涙が出たので、「このために生きてるわけじゃないよね?」と問い直した。
その時に自分のビンに入れていた仕事という大きな石を、一旦取り除いてみて、今に至る。
現状の職場では、「あ〜この人は仕事がすっごい好きなんだろうな」と思う人がいる。
「仕事に人生かけているんだろうな」と思う人がいる。おこがましくはあるが、自分にもその素質は確かにあった。
だけど、その人たちを前に尊敬の念以外の感情が湧いてこないあたり、自分にとっての大きな石は今は仕事ではなくなったらしい。
「まあいろいろな人生があるよね」
仕事に重きを置けない自分を責める気持ちになったら、この言葉を用意しておく。
以前自分で引いた線を軽々飛び越えてしまった今、二者択一ではない違う人生のかたちも柔軟に探していける気がする。
仕事が二の次になる人生は想像していなかった。
「いろいろな人生」に耳を澄ませて、風を感じて、胸が鳴る方へ手を伸ばしてみる。