「算数教育議論」から「人の認識と解釈」を考える
はじめに断っておくが, 本記事は賛成や反対という議論ではなく, 私なりの解釈と今回の議論が意味するものについての考えを書いたものである. 投稿主本人を攻撃する意図やそれを促す意図はない. それを念頭に目を通していただけると非常にありがたい.
某SNSで目にした算数の議論
通院の帰りのこと. とある算数に関する投稿で議論がされていた. 議論となった投稿は以下のようなものだ. (少しでも攻撃回避のため, 出典URLは変換している.)
読んだ方はどう思うだろうか. この主張は正しいだろうか, 逆に間違っているだろうか. もしくはどちらとも言えないだろうか. 私の答えは「どちらとも言えない」である. しかもその理由を説明すると, 引用ポストとそれに対する連続リプライで説明するには不十分だとさえ考える. 記事という形にしたのはそのことが理由である.
式が間違っているか否かについて
どのような書き方であれば減点される可能性が低いか
まず, 減点されてしまったという式について考えてみようと思う. 深く考えずにこの式を見たり, 単位に注目せずに数値同士の計算をしてしまうと
(答) 0.8本
となりそうではありそうだ. しかし, この方の娘さんが「4cm = 40mm だから, それを5mmずつに等分すればいい」ということを理解していれば,
$$
4cm \div 5mm (= 40mm \div 5mm) = 8
$$
と頭の中で解いている可能性がある. 単位を揃えるということを頭の中で省略しているのだ. 実際に答えは8本となっており, 娘さんは上記の式変形を意識的か無意識的かはわからないが理解している可能性が高いと考えられる. これでは本という単位(正確にはこれは助数詞)がどこから出てきたのか不明だという人もいる. その場合は以下のように書き換えてあげればいい.
$$
\begin{align*}
4cm \div 5mm/本 & \{ = 4 \cdot 10 mm \div 5mm/本 (\because 1cm = 10mm) \\
& = 40mm \div 5mm/本\} \\
& = 8本
\end{align*}
$$
この形であれば納得する人が多くいるかもしれない.
単位と助数詞, 計算でそれらをどのように扱うか
「単位を明記した計算に助数詞を明記するか否か」という議論もなされていたので, 私の知識や認識範囲内でもザックリとした説明を試みたいと思う. しかし, 厳密な議論についてまでは言及しない. 詳しい議論は以下に紹介する論文等を参考にしていただきたい.
1. 虫明基 : 『計量単位と助数詞の識別の明確化』
2. 平井安久, 青山陽一, 曽布川拓也: 『数の概念の捉え方について』
3. 河崎雅人, 松井 愛生, 小池守: 『算数科における組立単位に関する小学校教員の理解状況』
物理や化学で扱われるアボガドロ定数は, 「物質量1molあたりに含まれる粒子の個数を表す定数」であり, その単位は 個/mol ではなく, mol^-1 = /mol と表す. これは, "○個"は"○つ"と替えても特に問題がなく, 単位自体が意味を持つ尺度ではない. これらの助数詞は単位を意識した計算をする際には, 無次元量となる.
ゆえに, 議題となった問題における"8本"の"本"というのは単位ではなく, 助数詞(言語や地域によって, 変化することがある.)であるから, 無次元量, つまり, 自然科学の計算では省略される. そのため, 計算式に含めなくてもよい. しかし, 明記する方が「1本を5mmとして等分するということが認識しやすい」と主張する方の意見も分からない訳ではない. これは「様式や国際的なルールとしての正しさ」と「他者が認識しやすいような表現を模索すること」のどちらを優先するかによって, どのような表現が好ましいとするかは変わるようなものだろう.
※ 本節は2023年10月3日に加筆
これまでの議論の振り返り
以上のことをまとめると, 「割り算が意味する, 等しく分けるということを理解していればよくて, 式の意味自体は本質的に誤っていない」という立場 , いわゆる「"数式は言葉です. 計算じゃない." 」という立場に立てばこれは正しく思える. 一方で「数値計算としては判断しにくい. 同じように立式して答えを0.8として書いてしまう子がいたり, 偶然答えがあっている可能性を否定できない」という立場や, 「単位(や助数詞)を明確に表記していないのであれば, 中途半端な単位(や助数詞)の表記は誤解を生む (物理学や工学的なバックボーンを持つ人はこのように主張することが多い)」, これを言い換えると「多くの人にとって解釈が一致することが重要である」という立場ともいえ,その立場立つと正しくない(もしくは「正解と判断できない」)と捉える可能性がある.
議論を踏まえて考えうる改善策
では, どのような出題方法であれば今回の議論が発生しなかっただろうか.
まずは「"4cmは何mmでしょうか." という問題を前に追加する」という方法だ. これで誤った数値計算をしていない可能性が低いと判断することができそうだ. これは追加問題とする必要はなく, 問題文の下など小さいヒント欄(著作権フリーのキャラを用いて「4cmって何mmになるんだっけ〜? 〇〇mm」と投げかける)を追加するだけでもいい.
次に「問題文に"式は単位をそろえた形で書きなさい"といった条件や縛りを設ける」という方法だ. この方法をとれば単位変換が理解できているかを確認できるので, 解釈が分かれるような議論にはならなかったであろう.
解釈を一致させることの困難さ
直前では出題方法に工夫の余地があるという旨の主張をしたが, これによって「式を不正解にした教師に責任がある」という議論となるのは違う. 寧ろこの議論は, 「人は前提や先入観, 表現方法によって解釈が変わってしまう」ということを気づくきっかけになると考えられる. 話題になった「人によって解釈が分かれる問題」を別例を挙げて考えてみよう思う.
事例1. 『6 ÷ 2 (1 + 2) の答えは何か』
以下の式をみてほしい. 答えはどうなるだろうか.
$$
6 \div 2(1+2)
$$
私の答えは9だが, 人によって1とも答える. 中には5や7と答える人もいるが, こちらは少数派であるとして計算過程に関する説明は省く. 興味がある方は「なぜそのような計算結果になるか」を検索すればヒットするので調べてみてほしい.
答えが9になる場合の計算過程は以下のようなものである.
$$
\begin{align*}
6 \div 2(1+2) &= 6 \div 2 \cdot 3 [\because 1 + 2 = 3] \\
&= 3 \cdot 3 [\because 6 \div 2 = 3] \\
&= 9
\end{align*}
$$
以上のような過程から答えは9となる. このような計算を私がしたのは「演算子の計算優先順位と共通ルール」を以下であるとし, その前提のもとで計算したからである.
以上の前提で計算を行うと, 多くの場合は9となることが多い. が, 必ずしも解答者の解釈が一致するとは限らない.
そこで答えが1になる場合の計算過程を考えるものとする. 以下のような計算過程を辿ることが多い.
$$
\begin{align*}
6 \div 2(1+2) &= 6 \div 2(3) [\because 1 + 2 = 3] \\
&= 6 \div 6 [\because 2(3) = 2 \cdot 3 = 6] \\
&= 1
\end{align*}
$$
という感じだ. 一見こちらも計算として正しいようにみえる. 9になる場合との分岐点は「括弧内とその横にある2を優先的に計算しているかどうか」にある.
ではそれは正しいのか, もしくは間違っているのか. 私個人の回答は「
どちらが完全に正しいとはいえない」である.
上述した『演算子の優先順位と共通ルール』のみで考えると9が正しく思える. しかし, 「括弧内の計算を優先して計算する」という言葉が, 「括弧は優先して計算する」と習っていたらどうだろうか. 誤ってその解釈で捉えてしまっていたり, 時間経過で "括弧の内側" という前提が抜けてそのように解釈していたりするとどうだろうか. 「括弧は優先して計算する」という言葉から連想され, 「括弧の隣との計算も優先順位が高い」と認識してしまわないだろうか. 実際, スマホの電卓アプリによっては答えが1となるアプリも存在するらしい. (私が実際に試したところでは, 『真・関数電卓』はアプリが落ち, 『ClevCalc』では括弧を数字の横に入力しようとすると自動的に乗算演算子(×)が入力された.)
このような解釈違いを生まないようにするには式の表現方法を工夫する必要がある. 以下のように書けば解釈のズレというのが生じにくい.
$$
6 \div 2 \times (1+2) or 6 \div \{ 2 \times (1 + 2) \}
$$
数学は共通言語と呼ばれることがあるが, 表記の仕方で解釈にズレが生じる. この事例はその典型的な事例といえる. 今度は数学的ではない, もう少し単純な別事例で考えてみることにする.
事例2. 『雪が溶けたらどうなるか』
少し考えてみてほしい. あなたの考えはどうなっただろうか.
私はこの問題をパートナーに出題されたのだが, 「水」と答えた. 少し深読みして, 「最終的には水蒸気になるのではないか」という考えたり, 「そもそも "私" という存在が消えたり変化したとしても "私" だということは変わらない. それを踏まえると, "雪" という概念は変わらないのではないか」という発想もよぎった. そのような本質論や哲学的な話ではないと思い, 「水」と答えた.
一方, パートナーの答えはというと「春になる」であった. 私からすると目から鱗の発想だった. たしかに雪がとける季節がくるのは春だ. 私が沖縄で生まれ育ち, 雪が降る光景というのがほとんどないことも影響して思いつかなかったのもあるだろう. しかし, 私は「雪が溶ける」現象よりも「雪そのもの」に視点が偏っていた.
以上のように同じ言葉を聞いても人によって解釈が異なる. 当然, 人は解釈に応じて回答をするので, 答えも全く異なるものとなってしまう.
余談であるが, 理系寄りの人は「水」と答える傾向にあるが, 文系よりの人は「春」と答える傾向が高いそうだ. この違いが生まれる原因は私にはよくわからない. 「学んだ分野の違いが認識や解釈に影響を与えるのか」, それとも「認識や解釈に個人差があり, それが得意な科目や触れる知識の嗜好性に差を生んでいるのか」というのはわからないからだ. 先天性か後天性かというのは中々特定が難しい.
取り上げた議題からの学び
私が今回取り上げた議題から得た大きな学びは前節でも言及しているが, 「数学(という言語)や自然言語に限らず, コミュニケーションにおいて解釈や認識を一致させることは難しい」ということ. そして, 「ズレがどうしても生じてしまうという前提のもと, より解釈が一致するような伝え方を試行錯誤していくことが必要」ということである.
私がSNS上の議論に対する考えをブログにしたのは以上の気づきの影響が大きい. SNSで発言する場合, 「短文で端的に伝える」もしくは「リプライを連ねていく」という形が多くなる. 前者の場合は「情報が不足して本来の意図と違う意図で捉えられてしまい易くなる」というリスクがあり, 後者は「一部のみを閲覧した人が反発的な感情を抱く」リスクや「長々としていて主張を全て読むことを放棄する人が多くなる」可能性が大きくなる. 両者ともに「解釈や認識のズレを生じさせ易くなり, 発見や気づきを目的とした『学びの議論』ではなく, どちらが正しいか, もしくは反対意見側を言葉で捩じ伏せる『勝ち負けの議論』を促進する」可能性を秘めている. (以前, 科学雑誌『Newton』で読んだ研究の一つでは「SNSでの議論は『勝ち負けの議論』を発生させ易く, 対立や分断を促している可能性がある」と述べられていた. トランプ大統領が当選した当時の研究であった気がするが, 詳しくは覚えていない…)
さいごに
私自身はどちらかというと理系寄りと言われる部類の人間にあたると思う. 転学部したとはいえ物理学科に所属していたし, 社会人としてもデータサイエンティストという数学や計算機学を中心とした理論を用いて新たな価値提供や開発をおこなう仕事に従事していた. そのため数学的な厳密性を数学教育に求める気持ちが理解できないとはいわない. なんでも単純化して理解することには弊害があり, 複雑なものを複雑なまま捉えることも必要だとは思う.
しかし, ただ批判しているだけでは「現場に立つ人間」と「より正しい論理体系を伝えたいと願う人間」の対立が激しくなり, 分断されていってしまう. 「会議は踊る, されど進まず」ではないが, 一方的な意見の応酬では進歩がないのではないかと考えてしまう.
私たちにできるのは, 「人によって解釈や認識は異なる」, 「完璧な言語体系や表現というのは存在しない」という前提のもと, 「どのようにすれば解釈のブレを抑えることができるのか」と考えることや, 「(対峙する相手や生徒が)どのように認識し, どのような意図で答えたのか」について推し図る姿勢が重要ではないだろうか.
冒頭でも述べたがこの記事には「特定の誰かを攻撃したり, それを促したり, ある意見を否定する」意図はない. あくまで私が個人がどのように今回の議論を捉え, 気づきを得たかを記事にしたに過ぎない. 1人の人間の戯言として捉えてもらって構わない. それでは, またいつか. どこかで.
※ 余談
「自然科学(特に数学)は正しいか否かを判断できる」という極論や「〇〇という決まりが存在しているから誤りである」という意見も目にすることがある. 眉唾なものから, 一見正しいようにみえるような意見まで様々だ. しかし, 果たして数学的な決まりというのは絶対なのだろうか. 私個人の見解は否である.
数学には公理(体系を構築する前提となるもの, 当たり前として捉えるもの. 決して自明の真理ではない)というというものが存在する. 特定の公理をもとに構築される(論理)体系を公理系と呼んだりするのだが, 現代では様々な公理系が提案され, より無矛盾なものが模索されていたり, 「◯○という公理系のもとでは正しく矛盾が生じない」というような捉えられ方がされたりする.
今話したのは公理系の話であったが, これを人の認識や解釈に置き換えるとどうだろうか. 人それぞれ前提となる考えや仮説, 先入観というのは異なる. これは公理系が異なることに似ている. 公理が異なれば導かれる定理などの無矛盾性に差が生じる可能性があるように, 人でも前提が異なれば結論に至るまでの解釈や認識というのが異なる.
論理や厳密性を重視して論理構築を行う数学者でも意見が分かれるのだ. 一般的な事柄や厳密性が乏しい命題に真偽を求めるのは難しいだろう. 何より厳密性を求めれば求めるほど, 生徒が理解できる範囲を大きい超えていき, 応用性が失われるのではないだろうか.
ある意味では「解釈にブレがある」からこそ, 応用や発展というものに繋がると考えることもできないだろうか. (あくまで私の一仮説に過ぎないが…)
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