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隻手の音声

「千の点描」 <第ニ六話>せきしゅのおんじょう

私はいつも多忙だった。ゆっくり食事を楽しむ暇もなく、そしてそれに優越感を感じ、誇りに思っていた自分がいた。振り返ってみると、初めは自分なりに仕事に生きがいを見いだし、その生きがいに自己陶酔し仕事に没頭していた。やがて仕事をすることが自己目的化してしまうと、自分の時間がどんどん失われていき、自分の心がやせ細っていくのが分かる。そんな日々を送っていた私だったので、ここ嵯峨野の五月の風は痛いほどに清々しく爽やかに感じるのだった。空気に季節の色と香りがあることを今さらのように気付かされた。元々仕事の一環としてこの場に来たのだったが、それでもなお臨済宗の名刹で知られたこの寺院に自分が存在していることが意外で、きれいに磨き上げられた僧堂の木の床に正座している自分の姿がさらに不思議に思えたほどだった。
アンソニー・シュタイナーはアメリカからやってきた国際的なパイプオルガン奏者だった。楽器の特殊性から、音楽ファンなら誰もが知っているという有名アーティストではないが、その分野では秀でた演奏家として知られていた。シュタイナーは、日本での演奏旅行の多忙なスケジュールの合間を縫って京都に立ち寄った。京都に来た海外の演奏家が、社寺仏閣への観光を希望することはよくあることだが、参禅の機会を求められたのはこれが初めてだった。
 
私も学生時代から長らく京都に居住しているので、親しくしている寺の住職も何人かいる。中には大学時代の麻雀仲間で、今では臨済宗の本山の塔頭の住職もいる。しかし、外国人の著名なアーティストが参禅するという特殊な状況を考えると、この分野に詳しい人に頼むのが無難なように思えた。私は音楽関係の仕事をしていたので、学芸担当の新聞記者、秋原記者を知っていた。元々は仕事のつながりだったが、いつの間にか仕事の枠を超えて懇意にするようになっていた。この記者は京都らしいユニークさとでもいうか僧籍を持っていて、今回の依頼について相談するのにこれ以上格好の人物はいないと思えた。
ただ秋原記者は独自のポリシーを持っていて、何でもかんでも頼まれたことを気安く引き受けてくれるタイプの人ではない。それなりの社会的意義や、文化的価値を吟味したうえで、依頼を受けるかどうかを判断をする。実際のところ、私もシュタイナーのことを詳しく知っている訳ではないので、ある意味では無責任な依頼とも言える。ともかく、秋原記者に事の次第を説明し、シュタイナーに参禅する機会を設けてもらえないかと率直に依頼した。秋原記者が依頼に応えてくれることを期待していたが、必ず引き受けてもらえるという自信はなかった。しかしこの話の何かが秋原記者の心の琴線に触れたのか、即座に私の求めに応じてくれた。そのことによって、今日のシュタイナーの寺院での参禅が実現したのだった。
 
シュタイナーとは新幹線側の出口である京都駅八条口の駅前にあるホテルのロビーで待ち合わせることになった。待ち合わせの場所からタクシーで直接嵯峨野方面に向かうつもりだったので、秋原記者もこのホテルのロビーに来てもらうことになっていた。秋原記者と私は、ほぼ同じ時間、つまり約束の時間の一時間前にホテルに到着し、すぐに顔を合わせることになった。シュタイナーが来るまで少し時間があるので、それまでの間二人でコーヒーでも飲むかということになってロビー内を移動していた。すると、約束の時間まで一時間近くもあるというのにシュタイナーらしき人物が随行も伴わずに、一人でロビーの椅子に座って本を読んでいるのに気付いた。

秋原記者と私は、彼を誘ってカフェラウンジに行こうと考えたものの、吉原記者は全く英語が話せず、私の英語も相当に拙(つたな)いものだったので、時間潰しの会話だとしてもとても間が持たない。しかし、そのまま嵯峨野に出発しても少し時間が早過ぎるので選択肢はなく、シュタイナーに声をかけ、簡単な挨拶とともに朝のコーヒーに彼を誘うことになった。
シュタイナーは中肉中背で金髪、黒枠の眼鏡をかけた知的な人物だった。私の拙い英語で挨拶を交わし、コーヒーラウンジで片言英語による怪しげな会話が始まった。聞き取れなかった部分を再々聞き返すのも憚(はばか)られるので、曖昧なところは私の想像で補い、四〇分程禅や音楽をテーマに雑談した。もちろん大した話はできないのだけれど、彼が禅を始めたのが二三歳の時で精神的に不調を感じていた頃だったということが分かった。始めた動機はともかく、彼は禅を精神を健全にするメソッドだといったプラグマテックな発想はなく、禅は人間存在というコンセプトを再確認させてくれる原点だと考えているようだった。私なりには、それは「得度(とくど)」に近いようなものかと思ったが、拙い英語でそれ以上突っ込むことも出来ず、出発の時間も近づいてきたので三人の会話はそこまでになった。
 
車の中でも断続的で不完全な会話は続き、シュタイナーのプロフィールについて、いくつかのことを知った。彼はオルガニストとして知られていたが、アイビーリーグの名門大学で哲学の学位も受けていた。そのことからも、音楽家としての枠を超えた聡明な知識人であることが理解された。哲学の専門領域についてはさすが詳しくは話せなかったのでよく分からないが、すでに座禅にはかなり精通しているようだった。三人でたどたどしい会話を交わしていたからか、目的地にはあっという間に着いたような気がする。シュタイナーは寺院の周辺の厳かさと静寂さに感極まった表情を見せ、三人はしばし無言で少し離れたところから寺院を眺めていた。
嵯峨野にある寺院を訪れると、寺院では私たちの、来訪が周知されていたのか、来意を告げるとすぐに僧堂へと案内された。秋原記者からは予め専門道場で参禅すると聞かされていたが、私は僧堂の構造にはほとんど知識がない。おぼろげな理解では、僧堂とは僧侶が修業を積む施設のことで、その中に専門道場という場所があるのかと思っていたが、どうも僧堂そのものが専門道場と言うことのようだった。僧堂を訪ねると、まだ年若い修行僧らしき人が現れて,私たちを参禅の場所へと案内してくれた。長い廊下を歩き、やがて案内された部屋は思ったより広いものだった。どうみても一人が参禅するには広過ぎるので、多数の人と一緒に座禅することになるのかと思ったが、案内してくれた修行僧は、この部屋を自由に使うように告げると静かに去っていった。

シュタイナーは、一人でこの大きな部屋で参禅することに少しも戸惑いを感じていないように、部屋に入るとごく自然に、自分に相応しい場所を選んで座禅のために足を組み始めた。彼の真摯(しんし)な意志を理解した秋原記者と私は、目と目で同意の意志を確認し合い、部屋を出て廊下に並んで正座することにした。瞑想するシュタイナーを煩わせないように、彼の瞑想が終わるのを待つことにしたのだ。庭の側の襖は開かれているので、私たちが見ようとすれば部屋の中の様子は分かる。時たま部屋の中を覗いてみると、シュタイナーの背中が見え微動もせずに瞑想を続けている姿が確認できた。
シュタイナーが座禅を始めて一時間ほども経った頃か、微かに襖を引く音が聞こえ、そっと部屋の中をうかがうと、この道場の主である平沢老師が部屋に入ってくる姿が目に入った。老師は部屋から一旦廊下に出て、秋原記者と私に軽く会釈した。

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