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服従の幸福と無知の不自由 機械仕掛けの神様のいうとおり
かつては人が機械を作っていたらしい。
そして、機械たちが人の代わりに働いていたらしい。
もはやそんなことは、にわかには信じられない。
俺にとって、いや、村人たちにとって、機械は崇めるべき存在だ。
何かをしてもらうなど、おこがましい。
そもそも機械自体が物珍しい。
村人たちの1日の大半は、機械に指示された労働だ。
やることは決められている。すべて機械が決めてくれる。
どう畑を耕せばいいか、どういうタネを植えたらいいか、どういう世話をしたらいいか。
かつて。はるか昔の先祖は、そういったことを知っていたらしい。が、そんなものを俺たちの世代は知らない。
文明の発達とともに人類は労働から解放された時期があったらしい。
が、それも異常気象と争いで、文明も文化も無くなってしまった。
俺たちの数世代前のご先祖は、文明の頂点から急転直下投げ出され、荒野に降ろされたらしい。
そして、もはや自分たちの手で暮らしていかなければならないが、どう過ごせばいいのか分からなかった。
文明に守られた暮らししかしらなかった世代は、厳しい自然を前に途方に暮れた。
その時、見つけたのが、一台の機械だ。
その機械は、無限の知識を持っていた。無限というのが正しいかは分からないが、娯楽しか知らない人たちにとって知りたいことをなんでも知っていた。
そして、どう暮らすべきかを人々はその機械に指示を仰ぎ、なんとか暮らしを始めたのが、この村の興りらしい。
そこから村の人々は機械の指示に従い、日々の恵みをなんとか実らせて暮らしている。
機会の指示がなかったら、と思うと空恐ろしい。
何をたべたらいいか、なにが食べられるのか、まるで分からない。
自分が育てる食物を見ながら、思う。
この食べられるものは、なんというものなのだろう。
なぜ、食べられるだろう。
どうして、水をあげるのだろう。
どうして、種を植えると生えるのだろう。
わからない。父も、村の誰もわからない。
でもいいのだ。
ともかく、機械の指示通りにしていれば、食べれるものができるのだ。