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ファンタジア妖精遊能譚第1話





≪あらすじ≫ 
ある日、能の登場人物猩々の棲家に、菊慈童、義経、杜若、井筒の女、松風村雨姉妹などが能の世界から逃げてくる。一方心療内科医マヤのクリニックに能装束の旅僧が次々と訪れ、存在の不安を訴える。竹生島の龍神は能をさぼって弁財天(サラスヴァティー)に叱られる。ダンス好きの獅子はフラメンコを習いに行きたいと思う。源氏物語の能のシテの女たちが新しい人生を始めるために能から逃げる相談をする。猩々と菊慈童は世界妖精会議でアイルランドに行き、大混乱となる。みんないなくなった。これまで能の主人公たちに直接頼んでいた黒幕の国立大能楽堂の本部長は16世紀の笛の名人彦兵衛にみんなを呼び戻すよう頼む。

1.プロローグ 猩々の宿


 猩々は朝の光を浴びてむっくり起き上がった。
……頭が痛い。昨日飲み過ぎた。またやってしまった。昨日は潯陽の江に出張で、孝行息子に大きな酒の甕をやるというイベントをしないといけなかった。ただ酒の甕をやるだけではない。謡ったり舞ったりして大サービスだった。それにその甕ときたら酌んでも酌んでも尽きることがないというんだから。こちらもお付き合いでかなり飲んで千鳥足で海中に帰って行った、と見せかけて、このマンションに帰ってきたという訳なのよ。今からメイク落とししないといけない。あーあ、またお肌が荒れちゃうわ…。

 猩々はストレッチをした。そうしているうちに自分が男だか女だかわからなくなっているのに気づいた。
…あたしって少年? 少女ではないわね。何かニュートラルな感じよね。自分は、そう、妖精。 そうそう酒の精だった…。

 チャイムが鳴った。

…まだ酒が抜けてないのに、嫌だわ。誰かしら…。

「どちらさまですか?」
「菊慈童です。」
菊慈童だって? 知ってるけど。
「あら、ちょっと待って、今散らかってるから。」
「いいから、早く入れてよ。」
「しようがないわね」と、猩々はドアを開けて菊慈童を入れた。
「その辺に座って。今コーヒー入れるから。」
「悪いわね。それがね、あたし逃げてきたのよ。」 
菊慈童はソファに腰を下ろしながら言った
「どこから。」
酈縣山れっけんざんから。」
「あなたそこにずっと居たよね。引っ越さなかったの?」猩々は珈琲豆をコーヒーメーカーに入れながら言った。
「最初から言うとね、まず周の宮廷から追放になったのよね。」
「なんでまた。」
「周の皇帝の穆王の枕をまたいじゃったの。」
「それはまずかったわね。」
「それでね、酈縣山に流されることになったのよ。」
「すごいところね。」
「そう、人っ子一人いない深山幽谷の地よ。皇帝の家来に連れられて、その地への橋を渡らないといけなかったの。
「それで?」
「それが家来はあたしが橋を渡ったら、二度とこちらの世界に戻れないように橋を切り落としたのよ。
「へえ。」

「それでね、皇帝の枕を持たされててね、それにありがたいお経が書いてあるじゃない。それを唱えて暮らしているうちに、次に魏の文帝の家来が来たわけよ。酈縣山の麓から薬の水が湧き出たので山の方に調査に来たの。橋は切り落とされていたはずだけど、またかけたのかしら。あたしは菊の葉にお経を書いていたんだけど、その葉っぱの露が滴り落ちて、ありがたい菊の酒になったみたい。それが下流の方まで行ってたのね。それによく聞いたら七百年経ったっていうじゃない。いやー驚いたわ。我ながら。もうここには飽きたよね。さすがに。それでね、どこかへ行こうと思ったの。で、山をずんずん歩いて行って道に迷ったの。すると、木々の彼方にぽっかり草庵があるじゃありませんか。」

「長くなる?その話」猩々はコーヒーカップを温めながら言った。
「はいはい、ちょっと休憩するわ。失礼して。」
菊慈童はウィッグとマスクを外した。装束も脱いで、黒いTシャツとタイツだけになった。
猩々は珈琲を菊慈童に出してやりながら言った。
「ちょっと、私はもともと妖精だけど、あなたは元人間よね。」
「どうも。あらいい香り。人間たって、七百年生きたら仙人っていうんじゃないかしら? というより今では菊の精なのよ。」
「お砂糖入れる?」
「少しお願い。生まれで差別するのね。」
「そういう訳じゃないけど。それにあなたは人間と愛し合ったことがあるでしょ。ミルクは?」
「結構よ。大昔にね。皇帝に愛された童だから。愛されて捨てられたというか。」「私なんか愛だの恋だのという下世話な世界を知りませんもの。」猩々は得意そうに言った。
「馬鹿ね。愛や恋を知らないなんて、人生を深く味わってないわ。」菊慈童も負けずに言った。
「何よ、『人生』なんて。全く人間の発想じゃない。」
「いいの。元人間なんだから。ねえ、いつまでいていい?」
「えーっ?」ちょっと待てと猩々は思った。
「私が逃げてきたこと本部長には内緒にしておいてね。」
「だけど、仕事の連絡があったらどうするの?」
「誰かに代わってもらって。」
「知らないわよ。」
実は猩々も潯陽の江から逃げてきたのだった。しかしスマホを持っているので、部長から逃れられていない。

「で、さっきの続きなんだけど。ボロボロの掘建小屋に誰がいたと思う?」と菊慈童は言った。
「わからないわよ。」
「一角仙人よ。痩せこけてパッとしなかったわ。」
「はあ、なんか女好きの人だったわね。それで頭にツノあった?」
「よくわからなかった。」
「一角仙人てインドに住んでるんじゃなかったっけ?」と猩々は言った。
「天竺波羅那国よ。中国の酈縣山からちょっと歩いて行ける距離じゃないわね。」
「きっとあなたの逃げてきた世界にあるのは本当のインドや中国ではないのよ。 似て非なるもの。みんな日本の平安時代や中世のいでたちしてるし。つまり本部長の妄想の中に私たちは住んでいるのよ。本部長の意のままに出現させられるのよね。あの笛の音に導かれて。」猩々は口をへの字にして言った。

「自由になりたいと思わない?」唐突に菊慈童は言った。
「そうね。」猩々は無頓着に言った。自分も日本に住んでいながら中国の潯陽の江に出没している。
「わたし何しろこもってたでしょ。友達もいないし、人脈がないのよ。この際花の精を呼んでパーティーしたいわ。」菊慈童はとってつけたように陽気に言った。
「ここで? でもあの人たち結構忙しそうよ。 杜若かきつばたなんか売れっ子みたいよ。」猩々は誰がパーティーの準備するのよと思いながら言った。
「年増の『遊行柳』の柳とか『西行桜』の桜なら暇かもよ。」菊慈童は諦めない。
「遊行柳って男じゃない? おじいさんよ。西行桜も。 」
「ウソー。他に誰かいないの?」
「藤とか梅とか楓とかは女性だったわよ。多分若いと思う。 でも植物の精って男も女もないんじゃないかしら。妖精なんだから。」
「花の妖精はもういいわ。」
「ちょっとあなたも菊の精じゃないの? 元人間だけど。」
「あら、いやだ。忘れてた。」菊慈童は口をすぼめて笑った。そして体をぐにゃりとさせた。
「疲れたわ。」
「あなたそこで寝てていいわよ。あたしちょっとダンスのレッスンもしないと。『乱れ』の曲は大変よ。トゥ・ダンスよ。あなたなんからくでいいわね。」と猩々は言った。
「あら、シャレ? ラクとガク。 でもねえ。長いのよ。『がく』は調子も黄鐘おうしき盤渉ばんしきとあるし。」

猩々の携帯に電話がかかってきた。
「はい、猩々です。あ、お世話になってます。はい、はい、そうですか。わかりました。 よろしくお願いします。失礼します。」
「ずいぶんのんびりした呼び出しメロディね。誰から?」
「シンセアレンジの『乱れ』のメロディよ。本部長から。来年国立大能楽堂で大瓶猩々をするから、仲間を集めてほしいらしい。」
「何人でするの?」
「決まってないけど大勢ね。大壺の酒を飲んでは舞うのよ。」
「いいわね。仲間がいて。」と菊慈童はわざと寂しそうに言った。
「あなたの方は大勢で出るのはないのね?」
「ないわね。菊慈童って深山に一人じゃない?」 
「孤独だったのね。七百年の孤独。」

「でもこれからはそうじゃない。結婚だってするかもしれない。」と菊慈童は急にほくそ笑んで言った。
「えーっ? おやめなさい。結婚なんて。ろくなことないわよ。」と猩々は訳知りのように言った。
「あなた独身でしょ。なんで結婚しないの?」と菊慈童は詰問した。
「潔癖性なの。」猩々はどうだという顔をした。
「本当? 本当はアル中じゃない? いつも顔が赤いじゃない。」
「アル中の人は鼻が赤いのよ。わたしは顔全体がピンクなの。そもそも妖精は結婚しないのよ。」
「そうかしら。妖精の女王と王がいるじゃない。ティターニアとオーベロン。」
「あれはシェークスピアが作り出した世界よ。昔からいた妖精たちらしいけど。」

 猩々は昼間からビールを飲んでいた。菊慈童は急にワインが飲みたくなった。
菊慈童の酒と言ったら菊の水の酒だが、これは米から作る日本酒とは違うものだ。どちらかというと、中国産の金木犀のワインのようなものなのかもしれない。
「ちょっと私出かけてくるから留守番してて。」猩々は着替えを始めた。
「どこ行くのよ。」
「ふふ、ちょっとね。」
「やだ、誰か来たらどうするの。」
「モニタで見て話しといて。中には入れないで。」

 猩々が出かけてしばらくするとチャイムが鳴った。
「どちらさまですか。」菊慈童がモニタを見ると、武者姿の男だった。
「義経です。」
「えっ?」菊慈童は混乱した。
「入れてください。」と声を潜めて言う。
「私留守番のものです。どなたも入れないように言われています。」
「屋島から逃げてきました。お願いします。」

菊慈童は困ったが、全く知らぬ仲でもないので、
「じゃあ、ちょっとだけ」とドアを開けた。
「あら、血。」
「毎日夜明けに戦っているのです。修羅道で。もう嫌になったの。」
「あら、お坊さんに供養してもらったんじゃー?」
「一時しのぎよ。しばらくしたらまた同じことするんだもの。屋島の戦いで。能登守教経とね。」
「それで逃げてきたのね。」

義経は中に入って来ながら、
「ちょっと脱いでいいかな。気持ち悪くて。」と言った。
「いいけど。シャワー浴びる?」思わず菊慈童は親切心が出た。
「いいかしら。」
「さっぱりしたいわよね。バスタブも使って。」菊慈童は勝手を知らない他人の家で、人の世話を始めた。
「シャンプー使わしてね。」
「いいわよ。猩々のだけど。場所わかる?」

義経がシャワーを浴びている間、菊慈童は義経の装束を点検し、「洗濯機ダメかしら。まあいいや」と洗濯機に放り込んだ。
そしてふと気づくと自分も何年もお風呂に入っていないことに気づいた。シャワーでも浴びてさっぱりしたいわ。

「あの、私も入っていいかしら。」
「えっ? いいけど...」

菊慈童と義経は背中を流しあった。
「あなたの背中も結構汚れてるわね。」と義経は言った。
「七百年お風呂に入ってないもんだから。ちょっとあなたどうしてそんな言葉なの?」不審に思った菊慈童は言った。
「私? もともと稚児よ。」義経は鞍馬山の稚児だった。
「えーっ? 私もよ。」菊慈童も言った。
「稚児同士仲良くしない?」義経は言った。
「いいけど。猩々がどう思うか。あの人は稚児じゃないわね。もともと動物だから。」
「動物なの?」
「妖精だと言ってるけど、どうも動物っぽいわ。」

そこに猩々が帰ってきた。風呂場からキャッキャッという笑い声が聞こえてくる。何事か、と猩々がさっとバスルームに入ると、奇妙な二人組が入浴していた。
「ちょっとあなたたち、何よ! 私潔癖症だって言ったでしょ。
そんな血の付いた体や、七百年もの垢の付いた体で、よくも私のバスタブに入ったわね。」
「悪かったわ。あとで掃除しとくわ。」二人は声を揃えて言った。
「アルコール消毒もよ。」
「わかったわ。」

 その後、三人はテーブルを囲んだ。猩々が買ってきた惣菜がテーブルに乗っている。義経は浴衣を着ている。菊慈童は猩々に言った。
「なんで義経だけ浴衣なの?」 
「人間だから。」
「私も元人間よ。今は妖精だけど。」と菊慈童が不服そうに言うと猩々が菊慈童に言った。
「それより、あなた七百歳より老けてるんじゃない?」
「どういう意味?」
「気付いてないの? 今は21世紀よ。あなた魏の時点で七百歳でしょ。」
「あっ。でもそういう意味ではここにいるみんな一体何歳なの?」
「時間はまっすぐ一方向に流れているものじゃないのよ。」
「あらそう?」
「波のようにうねったり、無限大の形の中をぐるぐる回っているのかもしれない。」
「修羅の時が繰り返すのはそういうことかしら。」
「じゃあどうしたら時間から自由になれるのかしら。」
「自由なんてないのかも。リングから飛び降りたら?」
「リング自体が無限の幅のリングだったら飛び降りるということ自体ありえないね。」
「そもそも生きてた時代が違うみんなが一堂に会するというのが変よね。」
「本部長が問題よ。」
「あの人の頭の中の時間なのよ。きっと。」
「ちょっと本部長って実際のところ誰なの?」と義経が言った。
「知らなかった? 国立大能楽堂の本部長というのは仮の姿。本当は何者なのか誰も知らないわ。」
「でも私たちを雇っているんでしょ。会ったことない?」
「いつも電話だからみんな会ったことはないわよね。それに本部長の上に社長がいるのよ。」
「社長って会ったことある?」 
「いいえ。日本にはいないらしい。」。
「雇ってるって言われても、お給料もらってる?」
「あ、そういえばもらってないわね。」
「のんきね。」

 その時チャイムが鳴った。
「誰かしら。こんな夜更けに。」猩々はモニタの受話器を取り上げた。
「はい。」
「杜若です。」若い女の面をつけた人物がうつっている。
「えーっ? どうしたの、こんな夜更けに。」
「業平ワールドから逃げてきました。」杜若は言った。
「まあ、入りなさいよ。」と猩々は言いつつ、
「あら、あなたたちも?」と言いそうになった。杜若の後から松風・村雨の姉妹と井筒の女がついて入ってきたので。
四人は遠慮がちにソファに座った。
「すみません。恐れ入ります。」
猩々がハーブティーを出した。
「菊慈童のお持たせのカモミールティーよ。」
手土産にエディブルの菊の花を持ってきていた菊慈童は思いがけず花の精の杜若に会えたので喜んでいた。しかしカモミールとはちょっとちがうのではと思ったが黙っていた。

「あなたたちも嫌になったの?」猩々は親戚のおばさんのように尋ねた。
「はい、そもそも私は花の精なのですけど、なんだか私が業平を好きになったという設定になっているんです。その上、業平が「か・き・つ・ば・た」の文字を頭にした『かきつばたきつつなれにしつましあらば』 という和歌を詠んだということから、昔業平の恋人だったという高子の唐衣を保管しなくてはならないし、お坊さんが来たら業平の冠をつけて舞を舞わないといけないのです。」
「それは大変ね」
「実際うんざりしています。草木国土悉皆成仏と言ったらもうそれで済んだと思うじゃありませんか。それが何回も繰り返されるんですよ。お坊さんも何回も来るんですよ。」
「業平はタイプじゃなかったのかしら。」と菊慈童も急に出てきて言った。
「そうですよ。人間なんて別に。」
「人間はさておき、花の精同士なかよくしません? あ、あたし菊慈童よ。」
「あら、存じ上げてますけど、あなたって...」
「あたしのことどこまでご存知かしら」菊慈童は謎めいた微笑をふりまいた。

 井筒の女も口を開いた。
「私は紀有常の娘で、いうところの井筒の女ですけど。あの男はしのぶもじずりの女や許されぬ恋の高子、ずいぶん女遍歴をしたものですよね。なんでわたしがそんな男の着た物を着て舞わないといけないのかわかりません。井戸を覗き込んでいたらうつっているのが自分なのか業平なのかわからないなんて。」
「ひょっとしてふたり顔が似ていたとか」
「自他の区別がつかないなんて自分なんてもともとないのかも。」

松風と村雨も言った。
「私たちは業平のお兄さんの行平に騙されたのです。結局行きずりの女だったわけでしょう。でも私たち男の装束を着せられて舞うんですよね。それってなんなんですか。なんだか男性のナルシシズムに加担させられてるみたい。あるいは両性具有的なにか? しかも男女1:2ですよ。こんな変な役割はもううんざり。」
「結局みんな男物を着させられて舞わされたということですわね。」
「その頃男装するのはやってたのかしら。白拍子の舞の影響かも。」と猩々は言った。そして宝塚の男役みたいな魅力かしらと思ったが、みんなは宝塚を知っているかどうかわからなかった。

松風は猩々に言った。
「しばらくここにおいて頂けます?」
猩々は困って言った。
「でもご覧の通り、ここワンルームマンションですよ。」
「みんなで雑魚寝したらなんとかなるでしょ。」と菊慈童はとりなして言った。「今日はもう疲れたからみんな寝よう。」と義経は言った。

「あの、シャワー使わせていただいていいですか。」女性群が言った。
「どうぞ」
猩々は捨て鉢になっていた。 どうしたらいいのかしら。
義経は業平たちが糾弾されているのを黙って聞いていたが、人間の男は自分だけなので心細かった。愛人の白拍子静の舞も男装でそれはかっこいいと思っていたが、怒っている女たちには言えなかった。

義経は他の修羅ものの武者も呼ぼうと思っていたが、全部だと十人以上になり、こんなに混んできては無理かもしれない、でも敦盛とか清経、経正なんかは呼びたいなと密かに思った。笛や琵琶の得意な公達の彼らならきっとみんなも...。なにかコンサートでも...。


 


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