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『ドイツ零年』ロベルト・ロッセリーニ~あえて心理を描かない生々しさ~

札幌文化芸術劇場hitaruが、注目の映画監督を招き、監督が選んだ傑作2作品の上映と、特別講演をするというシネマシリーズ「映画へと導く映画」という企画で、横浜聡子監督が選んだ映画『ドイツ零年』についてのレビュー。ちなみに横浜聡子監督は、『ウルトラミラクルサブストーリー』『いとみち』など地元・青森を舞台にした奇妙で不思議な世界観の映画を撮っており、『俳優 亀岡拓次』という安田顕主演の脇役俳優の物語も撮っている個性的な監督だ。

ロベルト・ロッセリーニの映画はちゃんと観なければと思っていたのでいい機会だった。それというのも映画批評家の蓮實重彦がロベルト・ロッセーリーニを『無防備都市』、『戦火のかなた』、そしてこの『ドイツ零年』の戦争三部作を「イタリアン・ネオリアリスモ」という枠内の評価でのみ済ませているのはけしからん!と憤っていたからだ。『神の道化師、フランチェスコ』(1950)、『イタリア旅行』(1954)、『インディア』(1959)、『ヴァニナ・ヴァニニ』(1961)などの作品が不当に無視されていると彼は書く。

フェリーニやヴィスコンティでさえ、映画の内部に身を置き、そのことにある程度自足しつつ作品を撮り続けていたのだといってよい。実際、誰もが映画を疑っていない。ただ、ロベルト・ロッセリーニだけが、映画と映画ならざるものの境界線をたえず意識しながら、一歩でも映画の外部に身を置こうとする勇気と倫理を失わずにいたのであり、人々が許そうとしなかったのもそうした大胆な倫理性にほかなるまい。

『シットとは何か 歴史編』所収「ロッセリーニによるイタリア映画史」P158)より

また、

あと数年で一世紀迎えようとする(1988年当時)映画には、いまなお、グリフィス的に撮るか、ロッセリーニ的に撮るかの二つの撮り方しかない。

『シットとは何か 歴史編』所収「ロベルト・ロッセリーニを擁護する」P191より

とまで書いている。これは蓮實重彦の弟子筋にあたる濱口竜介が『他なる映画と 1』の中で書いていたカメラの「記録性」と「断片性」という二つの特性についての文章と符合する。映画のおける「記録性」の眼差し、フィクションでありながらも映像の「記録性」の生々しさを追求し、ロッセリーニが映画の限界を踏み越えてまで「映画ならざるもの」を目指した映画作家であったということなのだろう。戦争三部作以外のロッセリーニ作品もいつか観なければならないと思っている。

さて前置きが長くなってしまったが、『ドイツ零年』である。第二次世界大戦直後の廃墟になったベルリンの都市がまさに記録されている映画だ。建物はどれもボロボロであり、破壊された教会からはオルガンの音が廃墟の街に鳴り響く。その廃墟の街を少年が彷徨う。出演者はすべて無名の素人俳優だ。横浜聡子監督も指摘していたとおり、その素人俳優でも徹底的に演出がつけられ、指導されているので、わざとらしさはあまり感じない。ベッドで病と栄養失調で「にたい」と呟き続ける父、その面倒を見る母、元ナチ党員であったことを怖れ家に閉じこもる兄、酒場で男からタバコをもらって生計の足しにする姉、そして街で小銭を稼ごうとするエドムンド少年。カメラは家の中でもあまりカットを割らず、人物たちを巧みに動かせ、カメラはその人物たちを緩やかにパンをして追いかけながら画面に収めていく。それはまさに生活を記録していくドキュメンタリーのようでさえある。しかし、セリフと動きの演出はしっかりつけられているのだ。フィクションでありながらドキュメンタリーのように撮られているのだ。だから物語は、ことさらに困窮や父の毒殺を強調したりはしない。もちろん、父が一時的に病院に入院し、三度の食事にありつき、自分が家に戻ったらまたみんなに迷惑をかけることを気にする場面があり、秘かに毒物を病院から持ち帰る少年が写し出されたりもする。また、父の飲み物にその毒物を入れる場面も写し出され、これからおぞましいことが起きることが画面から予想されたりもする。しかし、ことさらに少年の戸惑いや躊躇などを手元や顔のアップでカットを割って、少年の複雑な心理を描こうとはしない。

少年はナチズムの思想を教えてくれた元教師と再会し、「苦しいときは情けは無用なんだ。生存競争さ。パパでも同じだよ。弱い者は強い者に滅ぼされる。弱い者は犠牲にする勇気が必要だ。そして生き延びるんだよ、エドモンド。よく考えて行動するんだよ」と言われもする。それが少年に父を殺させる引き金になったナチズムの影響かと問われれば、そうかもしれないし、そうでないかもしれない。それはその教師の言葉が顔のアップの切り返しなどでそれほど強調されていないからだ。病気の父に食事さえ満足に与えられない困窮と父自身の「にたい」という言葉、様々な要素が少年に罪を犯させてしまう。それはそのままラストの唐突な飛び降り自殺へとつながるのだ。元教師に父を殺したという報告をした後、元教師から「そんこと、俺は命令してないぞ」と言われて、頬を張られて泣きながらその場所を立ち去る少年がいる。しかし、その自分が犯した過ちを後悔するような場面はここでも描かれない。少年の「葛藤」や「後悔」などの心理描写が極力描かれないまま、ただ少年は廃墟の街を彷徨うのだ。子どもたちがサッカーで遊んでいる場面で、仲間に入れてもらおうとするが拒否されて、また一人街を彷徨う。教会から音楽が聞こえ、少年が佇むそのロングショット。そして廃墟の建物の階段を駆け上り、父の棺が家から運び出されるのを見て、自分が住んでいたアパートを見下ろし、突然、少年は落下する。その落下のシーンの呆気なさに観客は驚くのだ。戦争直後の悲惨なドイツの街で、犯罪まがいの生活を余儀なくされる少年の悲惨さが描かれはしているものの、ことさらにその悲惨さを強調しているような映画ではない。そのことが逆にドキュメンタリーのようななまなましさを生んでいるのだと思う。

ちなみに講演で横浜聡子監督が、「廃墟の街を少年が彷徨うシーン」に強く惹かれたと語っていた。物語の展開と直接関係ないかと思われるような登場人物の動き、仕草、「池をまわりをただ歩くだけ」のような無意味なアクションにこそ、ドキュメンタリーのような人間が立ち上るなまなましさが生まれるということに敏感な監督なのだろうと思った。


1948年製作/78分/イタリア
原題または英題:Germania Anno Zero
配給:イタリフィルム=松竹

監督・脚本:ロベルト・ロッセリーニ
脚色:ロベルト・ロッセリーニ、カルロ・リッツァーニ、マックス・コルペット
台詞:ロベルト・ロッセリーニ、カルロ・リッツァーニ、マックス・コルペット
製作:ロベルト・ロッセリーニ
撮影:ロバート・ジュリアード
セット:ピエロ・フィリッポーネ
音楽:レンツォ・ロッセリーニ
録音:クルト・ドブロウスキー
編集:エラルド・ダ・ローマ
キャスト:エドムンド・メシュケ、エルンスト・ピットシャウ、インゲトラウト・ヒンツ、フランツ・クリューゲル、エーリッヒ・ギュネ

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ヒデヨシ(Yasuo Kunisada 国貞泰生)
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