クリント・イーストウッドの傑作『ミスティック・リバー』~ミステリーの「二重化」と運命の苦さ~
おそらくクリント・イーストウッドの最高傑作ではないかと思われる『ミスティック・リバー』を久しぶりに見直した。それというのも濱口竜介が『他なる映画と 1』という映画講座を集めた本のなかで、この作品について触れているからだ。かつて観たときに、確かに濃密な映画だという印象があった。アクションではなく、十字架を背負った男たちの運命とも言うべき人生の重みのようなものを感じた。
濱口竜介はミステリーという形式について、「ミステリーというものはストーリーテリングのなかではおそらく唯一、「わからない」ということを主軸にして進めていい。「わからない」がだんだん「わかる」に置き換えられていく、そういう語りの形式です。」(P344)と語り、ミステリーの「最終局面で「わからない」がすべて「わかる」に転ずる瞬間、「謎解き」は絶対つまらなくなる」と断言している。それが「ミステリーの最大の弱点だ」と言うのだ。「謎解きがされてしまうと、それまであった不確定性・多義性は雨散霧消してしまって、画面はついに一つの意味しかもたなくなる」のだ。そのミステリーの弱点を『ミスティック・リバー』は「きわめて創造的にくぐり抜けている。「謎解き」の最中にミステリーであることをやめてしまえばいいというきわめてシンプルな解決」をイーストウッドはやってのけているのだと指摘する。
物語は、ショーン・ペンとケヴィン・ベーコン、ティム・ロビンスの3人の悪ガキ少年時代から始まる。道路にイタズラ書きをして、デイブ(ティム・ロビンス)だけが車で連れ去られ、性的虐待を受けた。大人になってショーン・ペンは裏世界で生きつつ、今は食料雑貨店の店主になっており、ケヴィン・ベーコンは刑事に、ティム・ロビンソンは低収入ながら息子と野球などをして遊ぶいい父親になっている。しかし、ショーン・ペンの娘が殺される事件が起きたことで、3人の関係は変わっていく。警察としてケヴィン・ベーコンは捜査をする一方、ショーン・ペンは愛娘殺害の犯人を警察よりも早く見つけ出し復讐しようとしていたのだ。警察の捜査とヤクザものたちを使ってのショーン・ペンの犯人捜しが同時に進行していく。そして、ショーン・ペンは間違った人間を犯人として殺してしまうという話だ。
本作では、ミステリーを「二重化」しているのだ。あらかじめ、私的制裁のために動いていたショーン・ペンが過ちを犯すであろうことは運命づけられている。観客は、警察のケヴィン・ベーコンとショーン・ペンたちの犯人捜し、二つの謎解きを同時進行のクロスカッティングで見ながら、ある真実にたどり着く。しかし二重化されたミステリーは、一方が冤罪であり、誤って殺される「悲劇」を目にすることになる。「謎解き」で犯人がわかってスッキリするのではなく、逆に過ちによる「悲劇」が起きてしまうのだ。単純な事件解決のミステリーではなく、冤罪を引き起こす私的制裁の後味の悪さ、苦さがこの映画の見せ場だ。「私的制裁」については、クリント・イーストウッドがこれまでに主演してきた『ダーティハリー』シリーズを始め、『ペイルライダー』、『荒野のストレンジャー』、『許されざる者』など、法の正義ではなく、私的な怒りから何度も制裁を下してきた最も重要なテーマである。刑事や保安官という役割を超えて、怒りから発する復讐や私的制裁による虚無感、苦さこそがイーストウッドが描いてきたものである。そして本作は、「もし、デイブではなく自分が車で連れ去られていたら」という運命に皮肉を感じながら、自分の犯した過ちを抱え町のパレードを見つめるショーン・ペン、そして夫を信じられずにショーン・ペンに制裁を実行させたデイブの妻(マーシャ・ゲイ・ハーデン)の苦さも描いている。さらに「あなたは町の王様よ」と娘のために行動したショーン・ペンをあえて認める妻のローラ・リニーの語りもまた重い。そしてショーン・ペンの罪を知りながら見逃したケヴィン・ベーコン、それぞれの人物像が複雑にラストで絡み合い浮き上がってくる本作は、やはり見応え十分の傑作だ。
2003年製作/138分/アメリカ
原題または英題:Mystic River
配給:ワーナー・ブラザース映画
監督:クリント・イーストウッド
製作:ロバート・ロレンツ、ジュディ・G・ホイト、クリント・イーストウッド
製作総指揮:ブルース・バーマン
原作:デニス・ルヘイン
脚本:ブライアン・ヘルゲランド
撮影:トム・スターン
美術:ヘンリー・バムステッド
編集:ジョエル・コックス
音楽:クリント・イーストウッド
キャスト:ショーン・ペン、ティム・ロビンス、ケビン・ベーコン、ローレンス・フィッシュバーン、マーシャ・ゲイ・ハーデン、ローラ・リニー、エミー・ロッサム