見出し画像

『幽 花腐し』松浦寿輝(文春文庫)~記憶と霊的世界の中の現在を彷徨う小説

松浦寿輝の小説を初めて読んだ。松浦寿輝という名前は、映画批評で度々目にしていたし、詩人で批評家であるのは知っていた。この小説を読んだのは、荒井晴彦監督の映画『花腐し』を見たことがキッカケだ。幻想的で幽霊話的なこの映画は、原作とどれだけ違うのかを知りたかったからだ。この世とあの世の狭間にあるような幽霊屋敷めいた古いアパートが出てくるのは同じだが、二人の男が一人の同じ女と時間を隔ててそれぞれ付き合っていたという設定は原作にはなく、映画化した荒井晴彦脚本によるものだとわかった。それにしても松浦寿輝の小説の主人公たちは、どの小説でも影が薄く、ぼうっと暮らしていて、生きているのか死んでいるのかわからない幽霊のようで、その場に溶けて消えてしまいそうな男ばかりなのである。

生きているのか死んでいるのかよく分からないかつての同僚に小便臭い地下道で久しぶりに再会し、「俺、これからちょっと留守にして家が空っぽになるんで、留守番代わりにお住みになりませんか」言われて伽村という男が住み始めた家は、「実際、妙な家だった。ぼんやりと暮らしたい者にとっては格好の家、とひとことで言ってしまえばそういうことになるがその意味はこの家自体が何か始終ぼんやりとしていて、堅固で鮮明な輪郭を帯びていないということでもあった。」と描写されている。この家の間取りは、住んでいる者にとってもよく分からない、二階へ上がっていく階段の位置が変わっていたり、平屋になっていたり、そうかと思うと酔って一階で寝ていると二階で起きたりするという変な家なのである。まさに幻想的な幽霊屋敷である。そんな屋敷で暮らしている伽村が、隣に住む女、沙知子と知り合う『幽』という短編にはこんな一節がある。

癒やされない。いつもそう思いつめながら伽村は生きてきた。だがいったい何が、あるいは誰が癒やされないというのか。「癒やされない」ということ。単にそれがあるだけだと伽村はこの頃しきりに思う。「わたし」が「癒やされない」のではない。誰が「癒やされない」のでもない。わたしはわたしではないのだから。わたしの身体はわたしにとっていつも他人でしかないのだから。たとえば沙知子のあのうっすらと開いた瞳に浮かんでいる潤むような笑みに感応してぐらりと揺らぐものが伽村のうちにある。こみ上げてくる仄かな欲情がかき立てる咽喉が詰まるような息苦しさもある.だがこの欲情は「わたし」のものではない。誰のものでもないのだと伽村は思った。「わたし」とはただ名前も出自も欠いた不定形の塊から一つ一つ小さくちぎれて落ち、人のかたちになっただけのものにすぎないのだから。たとえばそれは坂を下ってゆく影のようなものだ。あの土曜の昼下がりに青山墓地の傍らの坂を下っていった自分の後ろ姿が遠い影にとなって視界を掠めてゆくようだった。この世界には死者たちが満ちている。不在の者の影たちが満ちていると伽村は思った。それは「わたし」自身の中にと言うのと同じことなのだろうかと性懲りもなく伽村は考え、そう言っても構わないだろうと思った。

『幽』文春文庫P136より

この「わたし」という存在の不確かさ、影のような、誰でもない誰かであるような、自分の身体が誰のものでもないような、死者たちとともにある輪郭がぼやけて曖昧な世界そのものを生きている離人症のような松浦寿輝の感覚が面白い。文庫本の解説で、三浦雅士は、小説家としての小林秀雄と古井由吉を召喚し、さらに小説家としての吉田健一と松浦寿輝との文体の類似性を指摘しながら、「人間は記憶の樽のようなものであってそれはつねに現在として噴出しうるものだ」という吉田健一とも通じ合う時間論、現在という時間への固執と「悲哀」を松浦寿輝は描いていると指摘している。

『花腐し』の最後で、自殺した祥子という女の幽霊を古いアパートの廊下で見た栩谷は、「俺は今のこの瞬間を、この瞬間だけを待ちづづけていたのかもしれないとふと思った。こわごわと振り返って階上の暗がりに向かって伸びている階段の続を見上げると、もうその白っぽい後ろ姿は二階の廊下の方へと折れてゆくところだった。その後を追おうとして栩谷は今下りてきたばかりの階段の最初の段にもう一度足を掛けた。」と終わっている。記憶と霊的世界の中で現在を彷徨っている小説ばかりなのである。

いいなと思ったら応援しよう!

ヒデヨシ(Yasuo Kunisada 国貞泰生)
よろしければ応援お願いします!

この記事が参加している募集