小説『末裔』絲山秋子~鍵穴がなくて「家」に閉め出された男の不思議な物語
そんな書き出しで始まる絲山秋子の『末裔』という小説を読んだ。面白かった。定年間際の孤独なオヤジの話。なんか身につまされるのだ。不思議なことが次々と起こるのも面白い。。絲山秋子の小説はこれまでもいろいろと読んでおり、世間からズレた冴えないオヤジが出てくるのも、不思議なことが起きるのも同じだ。それは川上弘美の初期作品にも多く見られたし、村上春樹に出てくる異形なるものたちもそうだ。この世のリアルな現実から外れて、別の次元の世界を彷徨うような物語になぜか惹かれるのだ。
58歳の公務員、妻に先立たれた一人暮らしの主人公、富井省三は勤め先から世田谷の一戸建ての自宅に帰ると、鍵穴がなくて家に入れなくなる。亡き妻の物など捨てられなくて、半ばゴミ屋敷と化した自宅。玄関から庭にまわる通路は粗大ゴミと雑草におおわれて通れない。男は突然、家から閉め出されてしまったのだ。
その日から富井省三の放浪が始まる。定年を間近に控えた区役所勤めの公務員、富井省三はある時、回顧する。
妻に先立たれ、二人の子供は家を出て行き、いつのまにか一人暮らし。妻への思いを断ち切れなくて、物も捨てられずに、死んだ妻に手紙を書き続ける男。なんだか身につまされるわびしさだ。私自身も60歳を過ぎて、会社を離れるタイミングになると、そんなオヤジの寂しさに共感したりする。
この小説の面白いところは、この孤独なわびしい男に次々と不思議なことが起きるところだ。鍵穴消失から始まり、息子の朔矢に家に来ることを断られた省三は、梶木川乙治と名乗る謎めいた男に助けられる。「未来は当たらないが現在や過去は当たる」占い師だという乙治は、ビジネスホテルを紹介してくれるのだが、その後、「良くないことが起きるから東京から離れた方がいい」と言われる。そして「青い鳥を探して下さい」と謎めいたことを告げられるのだ。
ホテル部屋に置いてあったスーツを取りに行こうと再びビジネスホテルを訪ねた省三は、そのビジネスホテルそのものが忽然と消えていることに驚く。そして、梶木川乙治という男も消えてしまうのだ。
そして省三は、鎌倉の伯父の家に辿り着く。伯父も亡くなり、伯母は別の男性と再婚し、空き家となった家に忍び込む。そこにはなんと、省三が子供の頃にいたオキナインコのルネがいたのだ。「ショーチャン」と省三に喋りかけるインコ。これが「青い鳥」なのか?
さらに国語辞典を編纂していた学者の父のかつての同僚、駕原老人に出会ったり、庭に犬が「水を飲ませてください」とやってきて、「かつて犬だった者だ」と喋り出す。(P149)そして「あんたは犬の七福神の一人なんだ」と言うのだ。犬嫌いの省三が「七福神の一人?」と驚く。しかし鎌倉で知り合った友人たちが七福神のそれぞれの神に思えてくる。釣った魚を見せびらかす籠原氏は恵比須様、大黒天に毘沙門天、籠原老人が寿老人、その犬のボルゾイが福禄寿…。そして自分は布袋か。布袋は放浪していた中国の坊さんであり、布袋だけが神様じゃなくて実在の人間だ。「まさか。・・・あとの連中はみんな虚構だったとでも言うのか。」
実在しない者たちが省三の前に次々と現れ、省三を導く。幸福な思い出のある伯父さんの家で、省三は家出して行方不明だった娘の梢枝と再会する。娘は家に入れなかった父の話を聞いて「お母さんが閉め出したんだよ」と言う。亡き妻の靖子に手紙ばかり書いていると、「お母さんも成仏できないよ」と娘は言う。
最後に省三は、富井家のルーツである長野県の佐久へと向かう。その佐久の神社の境内の石灯籠に、「奉納 梶木川乙治」の名前を発見する。家を閉め出された省三を導いたのは、先祖からやってきた使者だったのか。
真実がどこにあるかわからないこの奇妙な小説は、亡き妻の思い出を抱えて、身動きとれなくなった定年前の男を、家から閉め出し、放浪の旅へと向かわせる。そして過去への時間を辿りながら、新たな一歩を踏み出させるという物語なのであった。省三の区役所の部下である桜田ミミは、アメリカに行ったきり連絡がとれなかった省三の弟の義男と結婚すると言い出す。省三は、やっとゴミ屋敷のゴミを踏み越えて、窓ガラスを割って家の中へと入るのだった。
長野県の山あいを運転しながら、省三は考える。
省三は止まった時間を進めるために、家を出て彷徨うことが必要だった。過去へと時間を辿りながら、妻の死を乗り越え、誰かと出会う必要があったのだ。