エドワード・ヤンの傑作『ヤンヤン 夏の想い出』ガラスに反射する光と影と人生の重なり
C)1+2 Seisaku Iinkai
エドワード・ヤンの遺作となってしまったこの『ヤンヤン 夏の想い出』は、まぎれもなく『牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件』と並ぶ傑作であり、エドワード・ヤンの名前をアジア映画史に刻む忘れられぬ作品となっている。残念ながら映画館では観れていないのだが、録画視聴であらためて見て、その素晴らしさを堪能した。やはりいつか映画館で観たい作品だ。
この映画の何が私を惹きつけるのか。結婚式から始まって、葬式で終わるある家族の物語である。感動的な物語は何もない。父親と娘と息子の3人を軸に展開するそれぞれの人生が並行して描かれている。その家族がぶつかり合う訳でもなく、家族同士のケンカや葛藤があるわけでもない。それぞれが悩みを抱え、それぞれが人と出会い、恋をし、あるいは人生をやり直そうとし、それぞれが自分の進む道を見定めながら、少しずつ歩いて行こうとしている。その世代の違う3人の物語がバラバラながら重なり合っているのだ。やはり子供たちのキャラクターが魅力的なのだ。
冒頭の結婚式は、郊外の森の緑と光が美しい。それはラストの葬式の場面でも繰り返されており、人生そのものが祝福に満ちているというエドワード・ヤンの思いが込められているのだろう。
ヤンヤンという小さな男の子は、結婚式でいとこの女の子たちにいじられて、からかわれている。そんなほのぼのとした子供たちの描写から始まる結婚式だが、披露宴パーティーで新郎の元恋人が乗り込んできて、妊娠中の新婦にケンカを吹っ掛ける騒動がまず描かれる。そして家族の祖母が倒れるのだ。
人生はままらない。つねにケンカや騒動がつきものだ。この映画はヤンヤン家族の周辺で、騒動がいろいろと起きる。結婚した義弟アディの家族の騒動、ヤンヤン家族の隣に住むリリーとその彼氏、母親の男をめぐる騒動。
『エドワード・ヤンの恋愛時代』同様にエレベーターの扉が使われる。ヤンヤンの父親NJ(ウー・ニェンチェン)がエレベーター前で元恋人シェリーと運命の再会をするのだ。「あの時ずっと待っていたのに…」という彼女の恨み言がNJに語られる。また、ヤンヤンが住んでいるアパートの同じ階のエレベータ前の廊下も度々使われている。様々な出会いの場所としてのエレベーターとその扉の開閉。
この映画の特徴の一つに、ガラス窓の反射が効果的に使われているという事がある。ガラスの反射と向こう側の映像が重なって見えるのだ。ヤンヤン家族の窓に映る車の光と隣の部屋の喧嘩している声が聞こえる窓、NJの会社の総支配人室のガラスの反射、NJの妻ミンミンの会社の窓に映る台北の夜景の光と「帰る場所がない」と同僚に言うミンミン、あるいは、NJと元恋人のシェリーの熱海からの帰りの列車の夜の車窓、または二人が別れた後の東京タワーが映るホテルの夜の窓とシェリーの嗚咽。若い恋人たちが会うカフェやバー、車の中の親子の会話も窓越しのショットが多い。ティンティンとデートをしたファティは「映画は人生を写す鏡なんだ」、「映画は人生を3倍にする」と言う。窓やガラスの反射を通していろんな色や形が重なる。人生の光と影が複雑に反射して映るのだ。
NJが元恋人シェリーと日本で再会し、熱海まで旅をするシーンが映画全体の中でとても印象深い。東京のビルの夜景の車窓。二人で地図を見ながら電車に乗るやり取り、夜、小さな駅で降りて、初デートを思い出しながら踏切で手をつなぐ二人。その二人の会話が、同時刻の台湾でのヤンヤンの姉ティンティン(ケリー・リー)とファティ(パン・チャン・ユー)の初デートの映像と重ねられる。若い二人も横断歩道で初めて手を握る。そして日本での神社の境内や階段、公園の森、夜の海辺、ホテルの窓越しのレストランと、親密な二人の会話は徹底してロングショットで捉えられ、決してヨリの顔など映さない。同じようなロングショットは、夜の町の台北の高架下の若い二人も同じだ。寄り添う二人の影と車の光と信号の変わる色。世代を超えて重なる人生の瞬間が見事だ。
ホテルでのNJの青い障子のシルエット。言い争う部屋の中の二人のロングショットの長回し。熱海でも東京でも、ホテルの扉の前での二人の会話と扉の開け閉めが効果的に使われている。一人になった彼女の泣き声だけがホテルの夜の窓を映しながら聴こえてくる音の使い方も見事だ。映画では音は度々、次の映像と重なりあうようにして繋がっている。
この映画の魅力のひとつとして、ヤンヤンという小さな少年の存在がある。決してタイトルにあるような物語の主人公という訳ではない。どちらかというと父のNJと姉のティンティンの描写の方が多い。それでも要所要所に出てくるヤンヤンの姿や台詞が最高なのだ。ヤンヤンは決して大きな表情の変化は見せない。寝たきりで目を覚まさない祖母へ語る言葉が見つからない戸惑い。「お互い何が見えているのか、わからないとしたら、どうやってそれを教え合うの?」「真実の半分だけってあるの?」と父にしつこく質問するヤンヤン。学校ではコンドームを風船にして遊び、気になる女の子に水風船を落とすイタズラを仕掛ける。雲の映像を暗い教室で見ているとき、遅れて入って来た少女のめくれたスカートを目撃し、雲の変化や雷を背景に暗闇で見つめる少女の姿。雷に打たれたようなヤンヤンの恋がさりげなく描写される。そしてプールで泳ぐ少女を見つめ、トイレの洗面所の水に顔をつける練習をするヤンヤンの努力に観客は笑わされる。そしてヤンヤンがそのプールに飛び込む場面にはハッとさせられる。また、人の見えない後姿ばかりをカメラで撮る写真。誰もが自分の後姿を見ることはできないという哲学的なその表現。前と後ろ、真実は一面的ではない。そして葬式での祖母への手紙の朗読。ヤンヤンは「見たことがないものを見せるようになりたい」という。それはエドワード・ヤン自身の映画への思いでもあるだろう。
寝たきりで目を覚まさない祖母に家族のそれぞれが話しかける。しかし、反応のない祖母にかける言葉は続かない。NJの妻ミンミンは、その単調な自らの言葉、日常の空っぽな自分の人生を感じて泣き出してしまう。ミンミンは家族と離れて、新興宗教の山へと逃げていく。登場人物たちは、それぞれが自分と対話をすることになる。そして人生が重ねられていく。
NJの義弟アディは家族ぐるみの恋人がいたのに、別の女性を妊娠させてしまい結婚する。ティンティンと隣人のリーリー 、そしてファティをめぐる三角関係、あるいはリーリーの母親とリーリー、英語の先生との三角関係、そしてNJと元恋人シェリーとのやり直しの恋、日本人ゲームデザイナー「大田」とそのコピー業者の「小田」の重なり。いろいろな関係が重なっているのだ。複数の人生の重なり。それは『エドワード・ヤンの恋愛時代』でも使われた方法だった。
ティンテインの白いワンピースが美しい。隣の女の子リーリーの恋人だったファティとのデートは、思いを遂げられずホテルに一人取り残される。夜の街を歩くティンティンの白いワンピースのロングショットのせつなさ。祖母が倒れた要因が自分のゴミの出し忘れにあるのではないかと疑い苦しんでいたティンティンは、祖母が死ぬ前に夢を見る。青い服の元気な祖母の膝で、緑色の制服姿のティンティンが祖母に髪をなでられ、蝶々の折り紙をもらう。「夢の中にいたい」というティンティンのこの幻想的なシーンも美しい。
NJのビジネスパートナーとなる日本人のゲームプログラマー、イッセー尾形が、不思議な存在感で登場している。「なぜ人は初めてを恐れるのか。毎日が新しいことばかりなのに」と語る。鳩を肩に乗せたり、トランプでマジックをしたり。「人生は複雑に見えるだけ。シンプルなのだ」と彼は言う。映画の原題は 「A One and a Two」、つまり「1+2」というようにシンプルなこと。祖母が亡くなり、妻が帰ってきて、最後に「人生をやり直す必要はない」と感じたNJは、シンプルに新たな毎日を更新できるのか。この小さな幼きヤンヤンの好奇心と夢から現実へと踏み出そうとするティンティンのこれからの未来、その可能性の広がりを願わずにはいられない。そんな人生のなんでもない愛おしい日々を感じさせてくれる映画だ。
2000年製作/173分/台湾・日本合作
原題:Yi yi (A One and a Two)
配給:オメガ・エンタテインメント、KUZUIエンタープライズ
監督:エドワード・ヤン
製作:河井真也、附田斉子
脚本:エドワード・ヤン
撮影:ヤン・ウェイハン
編集:チャン・ポーウェン
音楽:カイリー・ペン
キャスト:ジョナサン・チャン、ウー・ニェンツェン、エイレン・チン、イッセー尾形、ケリー・リー
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