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今年もM-1が開催されるので、混沌の第一回大会を振り返ってみた。

ことしもM-1グランプリが開催されることが発表されました。もう小躍りしたくなるほどいいニュースでした。

というわけで、M-1グランプリマニアの私が、改めてNetflixで第一回大会から順を追って観覧し、漫才が時代とともにどのような進化、あるいは変化をしてきたのかをで分析していきます。

大会の概要

M-1グランプリは2001年、島田紳助が自分なりの漫才への恩返しのため、そして芸人に「やめるきっかけを与える」ことを目標にして吉本興業の主催で創設されました。

「M-1」という名称は「漫才」の頭文字を取ったもので、「K-1」や「F1」
出場資格は結成し活動開始から満10年以内のコンビで、所属もプロ・アマも不問。

格闘技イベントのような豪華なセットや煽りVTRなど、当時の漫才コンテストとは一線を画する、まさに新時代の到来を思わせる演出がなされていました。

M-1グランプリの出場者は、各地域で行われる第1回戦、第2回戦、第3回戦、準々決勝、準決勝、決勝(ファーストストラウンド、ファイナルラウンド)と進んでいきます。

決勝戦の放送は2001年12月25日。当時はオートバックスが冠スポンサーであり(第10回まで)決勝戦開催日がクリスマスに重なったことから「オートバックス・クリスマス・M-1グランプリ」という名称で放送されました。

いま見ると番組全体に妙な緊張感があり、司会進行もふわふわしていて逆に新鮮です。

M-1最大の目玉はなんと言っても「賞金1000万円」と「決勝が全国ネットのゴールデン」ということでしょう。

当時大阪に住んでいた私にとっては、東京のお笑い芸人の漫才を見る機会などめったにありませんでした。というか、関東の芸人が漫才をすることすら知りませんでした。

全国の猛者達が一箇所に集まり戦う。ドラゴンボールの天下一武道会を見ているようでワクワクしたのは私だけではないはずです。

決勝進出者と審査員

第一回の審査員は以下のとおりです。
島田紳助
松本人志
ラサール石井
鴻上尚史
春風亭小朝
青島幸男
西川きよし

そして決勝進出者は以下のとおりです。

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今大会の優勝は芸歴10年目の中川家でした。トップバッターで出場しそのまま優勝するという快挙を成し遂げ、初代王者に輝きました。今大会は最終決戦は二組で争う形となっており、準優勝はハリガネロックでした。

2001年特有の審査

最初にも述べましたが、記念すべき第一回大会は番組全体にとんでもない緊張感が漂っています。司会の赤坂泰彦と菊川怜からもその緊張は伝わり、コンビ名を言い間違うなんてハプニングもありました。

第一回大会において特筆すべきはその採点方法です。先程の出演者のひょうを更に詳しくしたものを見ながら解説していきます

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(見にくい画像ですみません。note初心者なんで許してください。)

点数を見ると優勝した中川家でも596点(平均85.1点)と歴代優勝者で最も点数が低いことがわかります。しかし、それは大会のレベルが低かったというわけではありません。

審査員の松本人志は最高点が75点、2番めが70点と低得点で一見すると辛口のように見えます。ですが感想を聞かれると「面白かった」と答える場面が多くありました。

おそらく、これは審査員の中でも採点の基準が定まっていなかったからでしょう。現在のM-1では80点以上が決勝戦の基準とされ、90点以上になると高得点、面白い漫才という目安がありますが、第一回の審査員の中には、90点以上が面白いとする人もあれば、70点以上を面白いとする人もありました。

なんといっても第一回大会特有の審査といえば一般審査員の存在です。上記した東京会場にいる審査員がひとり100点を持っているのに加えて、札幌・大阪・福岡の吉本興業の劇場に集まった各100人の一般客が1人1点で審査するというシステムがありました。

しかし、このシステムは大きな問題がありました。一般審査員にとっては「押す」「押さない」の二択なので点数に幅が出やすかった点や、大阪の審査はよしもとの劇場でやっていたので、ホームジャッジが発生していたのでは?という意見もありました。

実際に、東京を中心に活躍していたDonDokoDonには18点、おぎやはぎには8点しか入りませんでした。

もし一般客の得点が排除された場合、以下の順位となります。(カッコ内は公式順位との比較です)

1位 中川家 596点(順位変動なし)
2位 ますだおかだ 575点(2ランク↑)
3位 アメリカザリガニ 568点(順位変動なし)
4位 ハリガネロック 567点(2ランク↓)
5位 麒麟 542点(順位変動なし)
6位 フットボールアワー 535点(順位変動なし)
7位 キングコング 528点(順位変動なし)
8位 DonDokoDon 520点(1ランク↑)
9位おぎやはぎ 497点(1ランク↑)
10位チュートリアル 483点(2ランク↓)

M-1のみならず、お笑いの賞レースにおいて審査の公平性は話題として世の中に大きく取り上げられることがあります。

この一般審査員制度は公平性という面であまり良いシステムとは言えなかったのでしょう。翌年より廃止されました。

優勝した中川家と認められなかったおぎやはぎ

大会において初代王者というものはとても重要です。初代王者によって大会の「格」が決まります。

中川家のスタイルは漫才の王道である「しゃべくり漫才」です。漫才はざっくりとした分け方をすると「しゃべくり漫才」と「コント漫才」に分けることができます。

「コント漫才」とは「俺がお客さんやるからお前店の人やってや。」というように舞台の設定があり、何かのきっかけで芝居に入っていくスタイルの漫才です。

一方、「しゃべくり漫才」とは何なのか。私の言葉ではコレだと言った定義付けが難しいのですが、ナイツ塙氏の言葉を借りると、しゃべくり漫才とは日常会話だと言えます。

中川家は「ネタが仕上がる」という表現をたいへん嫌うそうです。事実、礼二は審査員になってからも、ボケとツッコミのタイミングがマッチしすぎている、いうなれば「ちゃんと練習してきた漫才」への評価が低い傾向にあります。

昨年のM-1でもインディアンスの田淵に対してた「ボケの田淵君の素の部分のおもしろさが見えないのかな。」という一言を放っていました。また、後日のラジオでは次のような話をしています。

剛:インディアンスは小さい箱にネタを詰め込み過ぎたんちゃうかな

塙:そうですね。礼二さんは「素が見えない」って言ってましたよね

礼二:そんなん言いました?
塙:言ってましたよ(笑)

礼二:なんかね、誰かにやらされてるのが見えるんですよ。ピストル突き付けられて「ボケろ」って言われてる

土屋:いや……もう笑えなくなっちゃいますよ(笑)

礼二:そう見えたのよ(笑)。だから詰め込み過ぎずに、ボケ数減らしても、あの二人は腕があるから大丈夫やと思うんですよね

中川家にとって漫才とは、日常会話の延長であり、キャラに入るようなことはせず、あくまで等身大の自分が喋っているという形が理想なのです。

中川家が初代王者に輝いたことにより、M-1グランプリはこの先、「王道の漫才が強い」という傾向が少なからず見えていきます。

そして、この大会でもっとも割を食ったのがおぎやはぎです。東京会場の審査員の点数もあまり良いものではありませんが、一般審査員の点数があまりにも低すぎました。

しかし、この数字が単純におぎやはぎへの評価につながるとは私は考えていません。この数字には、「漫才にというものはこうである」という見る側の思い、良くない言い方をすれば思い込みが色濃く反映されました。

面白いとか以前に「コレは漫才ではない」と評価の対象外にされてしまったのです。

おぎやはぎはどちらかといえばコント師です。そして関西のコンビと比べれば感情の起伏も大きくありません。

「なんでやねん!!」と強く突っ込んでほしいところをあえて外し、ボケの人格を否定せずにネタを発展させていくところに笑いどころがあるのですが、コレを面白い漫才だと思えるほどの享受する感性が、一般人にはまだ足りていなかったのだと思います。

始めの第一歩

漫才師が自分のスタイルを模索する一方で、審査員や番組のスタイルもまだ模索段階にあった第一回M-1グランプリ。この大会が生まれたことにより、漫才は光の速さで進化、進歩を遂げることになります。

M-1がなければ、私もここまでお笑い好きにはならなかったでしょう。私の人生は明らかにM-1によって彩られ、狂わされたのです。

『Because We Can』の軽快なリズムに乗って階段を駆け下りてくる漫才師に心揺れ血湧き肉躍る季節が今年もやってくる。そんな喜日を胸に、その日を待ちたいと思います。

次回、第二回大会も振り返りたいと思います。え、もうええわ?どうもありがとうございました。



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