「黒猫ラベルのワイン」 辻下直美創作童話
太陽と月が入れ替わる時間。西の空はバラ色に染まり、東の空はスミレ色に染まっていました。けれどだれも空の色など気にせず、急ぎ足でうつむきながら歩いています。その様子をワインショップの店内から眺めていた岡野良樹は試飲ワインの樽を店内に取り込みはじめました。
「今日も一本も売れなかったな」
ワイン樽の中身は良樹が作ったオリジナルのワインです。ボトルは深い海の様な真っ青な色で、ラベルは黒猫がちょこんと樽に座っているかわいらしいデザインです。なぜ黒猫が描かれているかと言うと、良樹がワインの製造を学んだドイツに、黒猫が座った樽のワインは美味しいという言い伝えがあったからです。しかし、そんな願いを込めたワインの売れ行きはいまいちなのでした。
良樹は閉店の看板を出そうとしました。その時、ふっと少女が店内に駆け込んできたのです。
「緑色のボトルで、黒猫の絵が描かれたワインないかしら?」
愛らしい少女はぼさぼさの髪に真っ黒いくるぶしまで隠れるワンピースを来ています。
「おつかいかい?」
と、良樹はワインショップにとって珍しいお客さんに優しく聞きました。少女は真っ黒い目をぱちくりさせながら、
「あら、こう見えても私、今年で齢90歳になるのよ」
ときっぱりと答えるではないですか。少女はどうみても13、4に見えるのがやっとで、とても90歳のおばあさんには見えません。
「随分かわいらしいおばあさんだ」
良樹はこういう冗談が流行っているのかもしれないと思い、話をあわせます。
「そんなことはいいから、黒猫ラベルのワインはないの?」
少女は急いでいるのよ、と付け加えるように言いました。
良樹ははいはいと言いながら、海のような色をした真っ青なワインボトルを薦めました。
「僕が作ったワインは黒猫がラベルに描かれてるんだ。でも、あいにく青色のボトルしかないのだけど、どうだろう?」
少女は真っ黒な瞳でじっとボトルを見て、
「困ったわ、青い目の黒猫なんて見た事がないけれど・・・でも、しかたないわね」
しぶしぶワインを受け取ろうとしました。
「おっと。お嬢さん、未成年にお酒を売ってはいけないことになってるんだよ。法律でそう決まっているからね。お父さんかお母さんに買いにきてもらえないかな?」
良樹はきっとこの少女は近くに住んでいるのだろう、また両親と買いにきてくれれば、と優しく促しました。しかし、少女はきょとんとして
「何度も女性に年齢を聞くなんて、デリカシーのかけらもないのね。それに私はこのワインを飲まないの。じゃあちょっとそのまま持っていて頂戴」
そう言って、少女は人差し指をきりっと立てて2回ラベルの黒猫に振りかざしました。
すると、そのラベルの黒猫がきょろっと首を動かしたかと思うと、ラベルの中からこちらめがけてさっと飛び出したのです。
良樹は何が起きたのかわかりませんでした。
「うん、いい黒猫だわ」
飛び出した黒猫は店の床にちょこっと座って、普通の猫がするように毛繕いを始めました。
「この子、お借りするわね」
少女がそう言うと、黒猫はさっと少女の腕に飛び乗り、じっと良樹を見てにゃあと鳴いたのです。それは見た事もない青色の目をした猫でした。少女は店のドアをさっと開けて、今まさにすみれ色の空に溶けようとしていました。良樹はとっさに、少女の細くて壊れそうな腕を掴みました。
「待って」
聞きたい事はあったはずですが、少女にじっと見つめられると言葉は飲み込まれてしまいました。
「次はいつくるの?」
「また空がスミレ色になったら」
そういって少女は空の中に紛れて見えなくなってしまいました。
良樹は店に戻り、深呼吸しました。今、目の前で起きた事はまぼろしだったのではないか、と言い聞かせたのです。
しかし、棚に戻そうとしたワインをもう一度みつめると、
「夢じゃなかった」
そう、ラベルに居たはずの黒猫がいなくなっていたのです。
それから3日間、夕方には夕立がさらさらと降り続けました。そして待ちに待った4日目の夕方にはスミレ色の透き通った空が広がりました。
閉店間際、娘が店内に入ってきました。黒いワンピースからは美しい素足が伸びています。
「いらっしゃいませ、何かお探しですか?」
話しかけると、答えるように返事をしたのは青い目の黒猫のほうが先でした。
「この格好だと、おつかいとはいわれないみたいね」
良樹は吸い込まれそうな瞳をよく覚えていました。
「この子、お借りしていました。とってもお行儀が良くて助かったわ。さて、お礼をしたいのだけど、あなたのワイン樽はどちら?」
良樹は店の奥にあるワイン樽に娘を案内しました。
「ワイン樽がなにか?」
娘は黒猫の首根っこを掴むと、ワイン樽の上にそっと置きました。
「あなた、ドイツの黒猫の伝説を信じているんでしょう。黒猫が座ったワインは美味しいと昔から言われている言い伝えよ」
娘はキリッと2本の指を立てて、何かを唱えました。猫はワイン樽の上で背筋をうんと延ばしています。良樹はとっておきのグラスを出してきて、ワイン樽からワインを注ぎました。
ワインはなんとかぐわしい、美しい光を放った飲み物でしょうか。一口飲むごとに、ドイツを旅したときに見た一面のぶどう畑がありありと甦ってくるようです。そして2口目は夢の世界を旅しているような高揚感、3口目は風になって新しい土地へ旅立つようなさわやかさです。娘はニコリと笑って、夜の闇の中へ戻って行きました。
数年後、良樹は店長になって店のカウンターに立っていました。あの黒猫ラベルのオリジナルワインが口コミで広がり人気商品となったからです。もちろん、あの黒猫がいなくなったラベルのワインは大事に店の棚に飾られていますし、黒猫も樽の上で昼寝をしているのですが、だれに話しても作り話だと信じてくれないので、いつしか話をすることもなくなりました。また、娘がいつまた来てもいいように、緑色のボトルの黒猫ラベルを用意していましたが、もう娘が店にやってくる事はありませんでした。
おしまい
--------(C)703studio・20200429--------
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