生きるからには、美しく
「もう終わりだ。美しくなければ生きていたって仕方ない。」
ソフィーに髪を黒色にされてしまい、悲しみに暮れたハウルが吐き捨てた台詞。
観ていた人の多くがソフィーがそう言ったように、黒髪のハウルも素敵だと思っただろう。実際にとてもよく似合っていた。あれだけの美男子ならば、きっとどんな髪型だって似合う。
だがこの際において注視すべきなのはそこではなく、ハウル自身が美しくないと感じていることにあると思う。彼にとってあの鮮やかな金色の髪こそが自分の美しい姿なのだ。
鏡に映る自分の姿。自分の目で見る自分。人は自分の姿を見つめて生きている。僕たちが生きてきた中で、もっとも多く目にしている人間は間違いなく自分自身だ。友達でもなければ推しのアイドルでもない。
生きている限り常に眼前にあり続ける自分の姿。それが自分の納得のいく容姿をしていない時の悲しみはあまりにも大きい。
美容室で髪を短く切られすぎた時の絶望感と言えばお分かりいただけるだろうか。他人からすればなんてことない小さな変化でも、自分にとって自分の身嗜みにおけるコンディションの整い具合はまさに死活問題である。
誰も自分のことなんて見ていないのは分かっている。でも自分は自分のことをいつも見ているのだ。鏡の向こうの世界に暮らす、自分によく似たあの人には、できる限り美しくあって欲しい。
髪の毛に限った話ではない。上着やスニーカーひとつとっても、それを着て、履いているだけで嬉しいと思えるものをいつも身に纏って生きていたい。
なぜここまでこだわるかと言うと、容姿に関することで、僕は忘れられない苦い思い出がある。
中学生の時に所属していたバスケットボール部の顧問が部員に丸坊主あるいはそれに準ずる短髪を要求する人で、毎年夏休みが近くなると部員の過半数がその昭和の匂いが漂う理不尽なルールに渋々従って髪を短くしていた。
体育館の横にある技術棟の一室で顧問の先生がバリカンを持って部員の頭を刈り上げていた。完全に狂った教育である。野球部でもないのに坊主頭が大量に生産されていった。いやよく考えたら野球部=坊主の方式すらおかしい。
僕は一年目は何とかごまかして目立たぬようにやり過ごしたのだが、上級生になった二年目は顧問に目を付けられ逃げ切ることができず、泣く泣く学校の近くにある散髪屋で6ミリのバリカンを使って大切な髪を削ぎ落とした。
おしゃれなソフトモヒカンとかではない。完全な丸刈り頭。出所後もしくは服役中にしか見えなかった。お勤めもしてないのにご苦労様である。なぜこの国は悪いことをした人間は髪を短くするのだろう。そして僕はなぜ悪いこともしていないのに頭を丸めているのだろう。
鏡を見た瞬間の悲しみは今でも鮮明に覚えている。あまりのショックで数日間食欲をなくし食べ物が喉を通らなかった。周りの友達は僕に気を遣って似合っていると言ってくれたが、人から見られてどうかはこの際重要ではない。自分がどう感じているかが全てなのだ。
シチュエーションはかなり違うが、僕はハウルに心から同情した。自分にとって好ましくない容姿になるだけで生きることが何もかも苦痛に変わる。ご飯の味がしなくなる。そうだ、人は美しくなければ生きていたって仕方ない。
ハウルの言葉を聞いた後に怒ったソフィーがこう言った。私は美しかったことなんて一度もないと。
観ている人はこれまたそんなことはないと思ったはずだ。ソフィーは魅力的でとても可愛い。そもそもジブリのヒロインが美しくないはずがない。
だがこの場合もまた人から見てどうかは大事ではなく、ソフィー自身がそう感じていることに意味がある。おそらく彼女の言う美しさとはお洒落をして華やかさを身に纏った同年代の女の子のことを指しており、きっと帽子屋で地味な生活を送る自分を嫌った意図が込められていた。
美しさの定義は人それぞれである。他人に推し量れるものではなく、もしかすると自分でもよく分からないものかもしれない。
ハウルの動く城を観る度にいつもこのことを考える。分からないなりに、せめて人間らしく、自我を損なわない、自分で美しいと思える姿かたちでありたいと心から思う。