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今宵はパワフル満月。半世紀をパンクに生きて、今、初めて自分の生き方にOKを出せた。嬉しくて、センチメンタルが止まらない❤️
2024年9月18日。今夜はとってもセンチメンタルで涙が止まらない。それはきっとこの圧倒的な光を照射してくれる満月のパワーもあると思うけれど、嬉しい涙が止まらないのです。それは、長い道のりを経て、ようやくここへ来られた、という実感が湧いたからなのです。
今夜、私が主催するクンダリーニ覚醒のリトリートに参加してくれるアメリカ人の男性が、「そういえば君、薬は人を廃人にするといった投稿をしていたよね。実は僕、最近、薬を絶ったんだ。もう6年間も躁鬱病で薬をとっていたんだけど、このひと月薬を絶ったんだけど調子は悪くないんだ。これまではひどいパニック障害があったよ。でも今回は、思い切って薬を絶ったこと、そしてこのリトリートに参加することに、希望を見出しているんだ。」
と告白してくれた。その告白を聞いてから、涙が止まらない。嬉しくて。
その告白の時に二人で空に見た満月🌕が美しくて、黄金に輝く月は希望の光だ。
クンダリーニの覚醒は、鬱症状や何らかの精神疾患で病院にかかっている方には手放しでは勧めません。しかしこの方はご自身の意志でしっかりと立ち、前に進もうという覚悟を持って薬を断ち、大きな決断をして参加をされます。それを先生であるローハンとも相談して受け入れました。
実は他にも、何十年も精神疾患を患って苦しんでおられる方が数人ご参加されます。この方達も、入退院を繰り返し、薬に頼って来たが一向に良くならないことを長い間実感してきて、苦しみの中で光を見出そうともがいて、そしてご縁がつながり、ご自身で決断してお金を工面して参加してくださいます。
私は、こうして闇から光を見出そうとしている方が一人でも参加してくだされば、もうこのリトリートは成功だと思っています!
ゴールは人数ではありませんし、ましてや収益でもありません。収益を狙っていたら、わざわざ遠くインドから航空券を払って先生を呼ばないし、来てくれる先生も悟りを開いてからは自分の使命だと思って自分の家も持たずに世界に出向いてやってきた方ですし(だからお金は持っていません)、わざわざ日本全国地域へ出向いてまで開催しません。(普通なら来てください、という感じです。)なるべく参加しやすいように、時間的にも費用的にも負担のないように開催したいという意志でやっています。この開催が今回のみになるか、今後も続くのかは全くわかりません。
私はここ最近、先生のビザの招聘や暖簾に腕押し的な広報活動、日本人の安全牌を採って挑戦しない傾向や、ジャッジメンタルな反応に疲れてやる気を失っていたのですが(全くもって自分の都合ですが)、今夜の彼の言葉と美しい満月の影響による自分の心と体の反応を体感して、改めて自分の生き甲斐や使命のようなものを再確認でき、これをやっている自分の生き方、何に時間と労力を使っているのかということにOKを出せました!
自分が誇りを持てることが一番!
誰に認められても自分が認めてなかったら嬉しくないし、満足感もない。
私にとってはパッションこそが生きる餌ですから。
思うと、半世紀ほど生きてきて、初めて心の底から自分に誇りを持てると思えたなー、と実感しています。
これまでは、こんなに意志が強そうに見える私も、何となく外部の指標に合わせて生きてきて、魂の抜け殻のような時代が長かった。
中央集権、大資本中心主義の支配構造の世の中で、いかに認められるかで安全を担保できる、という父親の言い分に少なからず影響を受けて来た。公務員だと平穏に生き残れるから教師になれと言われ、「あんなほとんどが奴隷みたいで脳無しでつまんない教師たちになりたくないわ。」と思っていた。企業に勤めることさえ、本質的には馬鹿馬鹿しいと思っていた、というより吐き気がするほど合わない集団だったけど、とりあえずはご縁のあった企業などで病気になる寸前までがんばって、体にサインが来たらその場を経ち、何かまったく新しい見たことのない風景を求めて冒険を繰り返してきたが、油断すると、深いところに居座っている恐れが悪さをして、すぐ安全牌の場所へ戻ろうとする重力が働く。ある程度グローバルな大企業で経験を築いたこと、地方創生事業を行ったこと、ゼロイチをやったことなどが買われて、今や自由に遊びながら企業コンサルとしてスタートアップなどをサポートする立ち位置をさせてもらっているけれど、やはり企業体質 - ワンマンでエゴ満載の社長や媚を売る社員の魂の抜け殻みたいなエネルギーには反吐が出る。
私はいわゆる両刀使いで、両足をそれぞれ違う分野に浸してきた。プライベートではカウンターカルチャー側に足を浸しながら、仕事では父親像に被るような資本主義に翻弄された人達の中にいる。しかし彼らをある意味洗脳しつつ、時に嫌われ役を買いながら、もっと平和な仕組み、構造をつくるために、ティール組織やコーチング、個人の尊重、クレドをみんなでつくる、インスピレーションを得るワークショップ、株主なども巻き込んでの体験の数々をキュレーションしてきた。つまり私の両足間の互いの溝を埋めるような橋渡し役をやってきた。
平和活動家で自然派でヒッピー的な生き方をしてきた母側に付いていた私は、その敵のような存在だった資本主義に絡め取られた父親の生き様を理解したくて(きっかけは父に首根っこを掴まれて連れて行かれたのもあったけれど、)ビジネスの世界に足を踏み入れたら、それはそれで麻薬みたいな作用をした。右脳派で直感的な自分としては精神分裂する可能性もあるくらい辛かったけれど、"認められたい"承認欲求が餌となり、終わらないアドレナリンの注射器を刺し続けるような感じ。実際は歯を食いしばって自分を鼓舞して鍛え続けてきた。だから歯軋りで歯がボロボロになった。
でもやっぱり母親の影響が大きいから、ヒッピー的な生き方に憧れ、友達や夫となる人たちには、自由で社会の中心出回っている仕組みに触れないような生き方をするアーティストやミュージシャンやクリエイターなどを選ぶ。その人たちからは、実は心の奥で私を差別しているような感覚を得ていた。にわかに感じる、"ビジネスの世界にいた人"、"そっちの世界でお金稼いでんでしょ。" 的な差別意識のエネルギー。
私の被害妄想でしょ、と思う人がいるのも想像できる。そうかもしれない。私の中にそう思う心がなければそうは思わないから。でも潜在意識で感じているということは、世界にそのエネルギーが存在として渦巻いているとも考えられるのです。
でも同時に私もジャッジしている。ヒッピー系にありがちな、決めることを避け続ける態度、フラ〜っとしててやりたいことだけやって責任逃れをする態度、後出しジャンケン... と言った態度や行動にはイライラする。これらは全て、企業で集団統率やディシプリン(規律)を訓練されてたら、あり得ない態度。だけど彼らには鼻からそんな風に生きるつもりはない。最初から最後まで混沌を自ら選んでいる。
一方でビジネス界にいると、スピ子扱いされ、個性派で異端児のような扱いを受ける。だからこそ、スタートアップのような柔軟な考えを持つ若手の社長の元では、この異端児的な感覚を活かせて、アドバイスやコンサルをさせていただけるから、ある意味ベスポジをいただいているとも言える。契約時はジプシー契約を担保してもらう。基本的に個人の自由を奪うような会社のあり方や働き方、社会の仕組みには指を立てて生きてきた。それに媚を売ることも、自分の魂を売ることもしません。あくまで私は私のスタンスでOKでしたらサポートできることはします、と。
彼彼女に媚び諂っても私にとっては何の得にもならない。上に好かれて給料があがっても私の魂は喜びません。
つまり、個人的には母側の自然派で平和を望むヒッピー的な人種にも、ビジネス界でごりごり名誉と金を積み上げる人種にも一線を引き、行き場のない孤独な生き方をしてきたわけです。
究極、私から見たらどちらも変わらない。一方が二元的に世界を見ている限り、ヒッピー&カウンターカルチャー側は大資本や中央集権やお金というサイドを忌み嫌う。そして後者の反対側も同じように、自由だけ主張して責任を取らない、いい加減なやつらだと忌み嫌う。どっちの理論もわかる。しかし、どっちかサイドに属して怒りのエネルギーを元に行動していたら、一向にその溝は埋まらない。実はその溝を自分たちで作り出しているから。「私たちの領域に入ってこないでね。」と差別している、ジャッジして決めつけている。それは究極、戦争を起こしている人たちと変わらない。平和を求めて活動している母が資本主義に絡め取られていく父を恨んでいたのと同じように。生き方も価値観も違う。でもそれはそれぞれのカルマ、遺伝子、育った環境、求める理想や価値観、付き合う人、身を置く環境などにも依拠する。永続的ではない。人は本質的には変わろうと決めた瞬間に変われるはずだ。
結果、互いの怒りのエネルギーやヒステリックな感情表現が娘たちに大きな心の傷を残した。一人は精神病になって入院し、一人は大人になっても自尊心が低く満たされず、離婚を繰り返して、子宮に影を持つから子供を産めない。ここで言う後者の私に関して言えば、自分の人生だからどこかのポイントで被害者意識を辞めて自分の人生を自分でクリエイトすれば、いつだって人生は変えられる。しかし、この世の大方の人を見ていると、それはあまり簡単ではないようだ。私も例外ではなく、長い間、怒りのエネルギーで生きてきた。肝臓や腎臓が弱く顔色が悪い。怒りのエネルギーはネガティブで内部に不燃のガスとして篭り、内臓を燃やす。いつも乾燥して心も肌も乾々(カラッカラ)だった。
それがある時、愛のエネルギーに変わった。2023年にアイスランドに行ってからのこと。これは後述するが、それはもうコロッと生まれ変わったように、これまでの過去の私は別人だったかのように、しかしその過去も受け入れるどころか愛おしく思い、私という全体性を抱擁し癒す。そうしたらようやく前を向いて自分の魂が望む生き方を如何様にもデザインし、創っていける。愛のエネルギーだから多くの人を引き寄せて、スルスルと導かれるようにヴィジョンが現実化していく。愛は地球を救う、とはまさにこのことだ。もちろん一足飛びではなく、日々、瞬間ごとの鍛錬でしか身にならない。習慣化することが大事で、その愛になっている感覚、つまり波動や周波数を調整することを標準設定にしないと、すぐに外部の影響で元に戻ってしまう。だから瞑想やクンダリーニ覚醒が役立ってくる。影響されない体と心と魂の統合を目指す。
そして今、ずっと深層心理で求めて来た精神性を高めるワーク、クンダリーニ覚醒などの、一見 ”スピリチュアル"な活動をしているわけです。
外の反応として、よくある感じのカテゴリーに当てはめられて鼻であしらわれることもあります。「あっこちゃんはストリート系からスピ系にいっちゅうんやね。」と言われたこともあります。"そんなカテゴリーがあるんだ!"と驚いたことがありますが、人は自分の認識の中で分類して安心する生き物なのです。
一方、コーチングをするようになってからは、私が付き合う人たちの間では、ビジネスっぽいというイメージがあるからか抵抗感を示す人も多い。さらには、はたから自分自身のためでなく私の力量を試そうと穿った態度でセッションを受けられる方もいらっしゃいます。
でもすべてはOK!その方が見たいように見ればいい。その人が見える世界がその人にとっての全てなのだから。
私は影響されない。私はただ自分が信じることをやるのみ。
どう思われてもいい、いつかわかってくれる時が来るとしたら、それも受け入れるし、来ないとしても関わる必要がない。(だいたい私は小さな頃からそういうタイプでした。母に似て先見性があり、数秘No.も11なので、最初は理解されなくて孤独ですが、数年後に謝ってきたり、理解を示して近づいてくる人が多い。でもいいのです。その方がじわじわと味わい深い。私ってまじで生きづらい人間だなー、つくづく一筋縄にはいかないやつだなー、と自笑してます。)
そもそも、なぜ私がこういう活動をやっているかというと、それは私の魂が求めるからです。それがミッション/使命と感じるからです。
私はキャリアを上り詰めることにも、国の生産性を高めるための奴隷構造の指標に合わせて自分を生きずに評価されることにも興味がない。そんなつまらないことに自分の大切な人生を使うことに全く喜びを見出せない。
人は人だし、みんなその人にとって必要なフェーズで必要なことをしているのでしょうから、それらに対して良いも悪いもない。ただ、今世で自分に対して嘘か誠かどちらを選ぶのか?ということのみ。
では私は何に興味があるのかというと、
まだこの世の美しさを信じたい。
本当は美しいはずだと信じたい。
本当はこんなもんじゃなくて、もっと美しい世界があるんだと、それを自分の眼の黒いうちに見たい。
性善説を信じているということでもあるかな。
人はみんな美しいはず。だからその真実に立ち返れば、私たちは思い出せるはず。
その思い出す作業に私は私らしい形で関わりたい。
それは、私自身が思い出したいから。
そしてそのビジョンを人と共有したい。
幻でもいい。幻も信じ込んだら現実になる。今の歪んだ現実も幻想から生み出された。誰かが支配するという構造の元に。
だったら綺麗だと思い込んでいるその幻想に乗っ取らせることもできる。
ではその綺麗な、美しいヴィジョンってどんなもの?
それを思い出したいから宇宙と繋がりたい。
宇宙の根源エネルギーであるクンダリーニが私たちの体の中にエネルギー体としていてくれるなら、どうぞ起きてください、私たちが生きている間に眠りから覚めてください、と願いたい。
今の世の中はすでにパーフェクト。そう思えば自分は今日も幸せで生きられる、と昨年一緒にリトリートを開催したPavelは言いました。
それは究極な言い方でもある。なぜなら戦争や自然災害の被害者であった時、この世はパーフェクトだと言ったら頭が狂っていると思われそうだ。しかし彼がこう言ったのは全ては見方であり捉え方だという意味です。どんなに過酷な状況でも、いっぱいの水を飲めたなら、それはもう湧き立つような幸せを感じるかもしれない。今この瞬間を味わい、持てる全てに感謝した時に全細胞が笑っているような悦びに浸る。幸せとはそういうことではないでしょうか?と。幸せだと思うことも、その湧き立つような感情も、高い周波数も、究極は自分自身でつくり出せる。 ”過酷な状況にいる”と思うのはもしかしたら外野かもしれない。かわいそうと思う、自分と比較して幸せそうじゃないなんて誰が言えるのか?
例えば、ペルーのアマゾン川近くの掘立て小屋に滞在し、シャーマンにお世話になっている時、子供達が楽しそうに川遊びをして、高い木に登ってフルーツを落としているその表情がキラッキラの笑顔だった時、そして、さっきまで庭を駆け回っていた鶏のフレッシュなスープをいただいて世界一美味しいスープだと感じた時、私は世界的に見ればこれまで経済的にあまり不自由なく、同じ価値観(つまり狭い価値観)の人たちと戯れ、明日を不安に思い、嫌な仕事をして、将来のために金を貯め、うだつのあがらない人生を歩んでいた過去の自分が急にとてもちっぽけなものに思えた。
幸せだということは他人が決めることではないし、決められることではない。今この瞬間に全てはパーフェクトで私は幸せだと思えばそれは波紋する。
あるいは、アウシュビッツの獄中を生き抜いたヴィクトール・エミール・フランクルが「夜と霧」で残してくれたメッセージも励みになる。
人生はさまざまな問いを投げかけてくる。その度に私たちは口先ではなく行動によって答えなければならない。生きるということはかせられた使命に対し責任をもってまっとうすること。人生から要求されることは人によって異なるし、瞬間によって変化もする。だから人生にどんな意味があるだろう?と考えても答えは見つからない。人生からの問いかけ、すなわち運命とは決して漠然としたものではなく、常に具体的な状況となって目の前に現れる。その時に"さあ、君はどうする?"と問いかけられている。したがって今まさに苦しみという課題が問いかけられているならば、人は運命を見出さなければならない。自分以外の誰かの苦しみを背負うことはできない。その運命を授かった本人が苦しみを背負い担わなければならない。しかしその苦しみのなかにこそ、唯一無二の業績がある。」
これらは、地獄のような強制収容所といった環境によって、自分を絶望させない唯一の思想だった。
フランクルは、すなわち、自分の人生に意義を見出せずに苦しい時、その考えをくるりと反転させて、人間の方が逆に人生に問われている存在だと思考を変えることが大切であるということ、そして人生に対して絶対に肯定する態度を教えてくれる。
今、急速にある一定の人たちの間で美しい共同幻想がつくられ、その光への進行が早まっている現象を私は確実に目撃している。似たようなヴィジョンを見ている人たちは感染しあって、それは大きなうねりにもなるということだから、パーフェクト幻想がハックできる証拠でもある。
私が意図せず資本主義を経験したのはきっと父の立場を垣間見たかったから。キャバクラで働いたのは、社会を支配している男たちの心理構造やリアリティを知りたかったから。現実逃避ばかりしているうだつの上がらない男たちに媚を売ってサーブするこんな仕事は最悪だと思いつつも、男たちを手玉に取る女たちは肝が座っていてある意味したたかさを感じた。世界の歪みをその感情の渦巻くうねりの中で体感できた。
こうしてある程度、世の中の見たい世界は見てきた。
でも本当は踊り子にもなりたいし、服や帽子やジュエリーをデザインしたいし、音楽で人を快感に浸らせるDJもやりたいし、自分の好きな空間をプレゼンして美味しいご飯を出して喜んでもらえるカフェをやりたいし、好きなものを買い付けて売る骨董商もやりたいし、歌を歌って感動してもらえる歌手 にもなりたかった。
そういえば大学生時代に一度歌手をやっていた時がある。渋谷のClub Asiaでレゲエを歌ってたことがある。バンドメンバーも増えて、私も作詞をさせてもらえる段になっていたが、自分がステージに立つことに違和感があること、そして群衆の態度がステージに立つ前と後では変わることに嫌げがさしてすぐに降りた。私は根拠のない賞賛を浴びたいわけではない。自分がまだまだ未熟者だからというのももちろんあるが、人がステージに立っていると群衆はアイドル化して強い関心を持つ。ステージに立つ前は誰でもなかったのに。私はそういう人の心理変化に敏感だし、現実社会に嫌気がさしていたので、人を信用できなくなっていたのもあったと思う。
小さな頃から学校でも日直などで前に立たなければならない時は、黒板をずっと見ながら話していた。人に見られるということが極端にいやだった。それが今や、ドイツのテックカンファレンスで5分前にいきなり依頼された企業のプレゼンのピッチで優勝してしまうという即興力と本番力を身につけてしまったから人とは不思議だ。
話を戻すと、やりたいことはたくさんあるんだけど、自分は自然に人を輝かせることをずっとやってきている。エステやマッサージで女性が綺麗になったり、広報やブランディングで人や企業の本質を言葉にして物語を紡ぎ、広げていく、エンパワーしてもっと輝いていく姿を見るのが好きだった。それは、美人で芸術センスもあって繊細でガラスのように美しい心の母親が、どんなに褒められても絶対に認めず、自己評価が異常なほど低かったことに起因しているのかもしれない。母には自分を認めて欲しかった。自分を誇りに持って欲しかった。もっと本来の輝きを自らに導いてほしかった。
そして、私の置かれた境遇 - 家庭の分離からこの世の分離が見えていたこと、資本主義側の父 vs 自然と平和を望む母、姉のイジメと病気、それによる友達や社会からの差別、結婚相手達からの(姉の病気による)遺伝子差別などによって、どうやったって精神や心のことは、私の中で無視存在として大きくなっていった。こんな風に影を抱えていたから、自分自身も摂食障害や鬱的症状を患っていたことも起因している。
一方、友達や私を知る人たちは、そんな暗いエネルギーの方向に行かない方がいい、私は憑かれやすいからもっと自分の好きなこと、陽の方向に行った方がいいよ、とアドバイスをしてくれて、何に自分が一番燃えるかを模索していた時期も長かったけれど、やっぱりいつも精神世界に引き戻される。その奥深さに、飽きやすい私も飽きがこないほど深い、というよりも畏怖的でアンタッチャブルな気配も感じるから、今世では体験し切れないであろうパンドラの箱のようなものを感じていて、しかし少しでも光に近づきたいという欲求からだと思う。
そう、"Light"になる(= 軽くなる=光になる)というのが、2024年の新年に降りてきた言葉だった。そんな中で、最近起きた大きな気づきがある。それは、私はずっと何か外部要因のせいにして、見えない何かを恨んでいたということを。
母親の愛情を独り占めしている姉を、姉の状況を生み出したいじめた奴らを、父親を、社会を、遺伝子を、、、
そう、キリがない。
でも、コーチングを学んで気づいた。
ある時、ふと、半世紀ほど自分で貼り付けていた大きなかさ蓋がごそっと一気に剥がれ落ちるようなほどの衝撃があった。それは同じように精神障害を抱える姉を持つ、コーチングを学ぶ女性の発言から。「私はずっと被害者意識だったんです。」というその一言で、私は目が覚めた。
そうだ、私こそずっと被害者意識で生きてきたんだ。この社会を恨み、モノや人のせいにして人生を生きていた。うだつの上がらない人生を。だから、自らがそういう事態を呼び込んでいた。イギリスで受けた人種差別やホームステイ先の冷酷な扱いなどによって38kgの骨のような体になってしまったり、男どもからの痴漢やセクハラやレイプ、これまで起きた差別やイジメやパワハラなどは、全て自分が引き寄せていたんだ、と。
その気づき以来、楽になった。まさにごそっと瘡蓋が落ちたように、心も体も軽くなった。もう誰も恨まなくていい。全て自分次第で人生はつくり出せる。
さあ、欲しい現実はなに?体感したい感情は何?誰と一緒にいたい?生きている間に何を経験したい? - そういうシンプルな質問の答えを、今ここで現実にするのみ。そのために日々を、今この瞬間のパッションと生命エネルギーを使い、生きる。
ヒッピー系の人達に論理的すぎると批判されようと、ビジネスごりごり系の人たちに直感的すぎるスピ子と批判されようと、たとえ居場所がなくて辛い思いをしようと、私はどちらにも属さない。だって私はその両極端をつなぐ橋渡し役でありたいから。
まあ、そんなことも気にせず、ただ心地よい場所に身を委ねるだけなんだけどね。カテゴリー分けをしているのは私の脳だから。
そんなカテゴリーにはめなくても、世界のどこかにいる、自然で素直で魂が輝いている友達に私は救われている。そういう彼らとつながっていることが幸せ。ジャッジしない、決めつけない、その人の可能性を信じる、ひらくお手伝いをする。常に鼓舞する。一緒に笑う、楽しいことをする。そんな素敵な人たちとの時間を過ごせる私は幸せだと思う。
.......
私は分裂した家庭で育ちました。母親は家出をして親と縁を切り、あの時代にはカウンターカルチャーの先端にいて、世界平和活動家として原発反対運動でピースボートに乗り、水俣病患者を守る会を作り、今でも彼らの甘夏を買い続け、死刑反対を訴え、あらゆる公害問題に署名活動を行い、本を出版し、文化的なムーブメントを作り、家では畑をやり、石鹸を手で作り、洗濯板で洗濯し、天然酵母パンを作り、それら原料にこだわるのにほぼタダで売るから赤字が貯まり、女たちの広場をつくり、私を家で出産し、ワクチンは絶対に打たせず、生まれた時から玄米を与え、マクロビに懲り、、、でもヒステリックでした。満たされていなかったのでしょう。彼女は今でも姉の面倒を見ながら、年金生活なのに世界中の子供達に寄付をして、素晴らしい教育をしている珊瑚社スコーレという沖縄のフリースクールに寄付をしている。(私も就職して1社目でスノボーでジャンプして退社してからこの学校に半年いました。それは私の人生を変えるような体験でした。校長のほっしーが人格者で、はみ出しもの達が居場所を見出し、輝いて社会に出ていく。そんな希望の学校ですが、法人化に苦労しており、高尚な方々の寄付金で成り立っています。)
一方、父は寺の長男として僧侶の道に生まれたが、父が満州で戦死し、養子に出された先のお寺の住職がアルコール中毒でDVを受け、家を出て、京都の西本願寺で僧侶として働いていた時に、福井から家出をして同じく西本願寺でそろばんを打って経理をやっていた母と出会いましたが、二人は寺をやることは辞め、駆け落ちのように大阪で新たな暮らしを始め、私たち姉妹を産みました。父はサラリーマンをやった後に友達と一緒に企業しましたが、友達に逃げられ、借金を抱えてマイナスから始めるような過酷な状況でした。父は死に物狂いで働くも、母はやれ女性開放運動だ、天然酵母の菌を育てるだ、などで夜中から起きては忙しくし、父の面倒も見れない。私は焼きたてのパンの香りで目覚めて悦び溢れてパンを頬張る片脇で、父はコンビニのメロンパンを口にくわえ、「お前は宗教に侵されているのか!?」と女性たちと活動している母を罵倒する。そんなこんなで家の中はいつも罵り合いの戦争。父は接待だと言って飲み歩き、帰ってくるのは夜中。そのうち繊細な姉が学校でいじめられたことが起因して分裂病、今で言う統合失調症になる。
姉と母が悩む中、父は姉の問題は全て母の教育のせいだ!と攻め、母も鬱病になる。姉と母はいつも一緒で、私はというと家の中でも居場所がない。めちゃくちゃ孤独。ある時、勇気を振り絞って7歳の私が母に、「(お姉ちゃんのことで)私にできることない?」と聞くと、「あんたになんかできることなんてないのよ!」と言われ(今思うと母からしたら、「こんな大変なことに関わらないで自分を生きなさい。」というメッセージが不器用な母の口からはこういう言葉になってしまったのだと思う。母は大人になってから何度も謝った。)、それが私にとってはトラウマとなり、"人に認められる強い人間になって、いつか母と姉から頼られる人間になる!"というつくりあげた強い信念が、承認欲求を肥大化した。だから仕事を歯を食いしばって頑張ること、社会や人から評価されることが麻薬中毒のようになり、心を失う(忙しいというのは心を失うという書きますね)。企業や社会に重宝がられるほど、それが快感となりエスカレートする。そしていつまで経っても自分を生きられないから苦しむ。自分が何のために生きているかを見失い、生きる価値を失い、やがては愛する人さえも失っていく。
私は母の影響で正義感が強い子供だったので、小学校の通学中に鳥が死んでいればお墓を作り、学校に遅刻して立たされても言い訳はしない。先生の教えることや人間性についていつも疑問を持っていた。とにかく素直じゃなくて首が曲がってて斜めから教師を見ていた。でも成績や絵の評価は高いからあまり好かれる子供ではなくて、家庭訪問では、「いつも斜めから見ますね、お宅の子供は。」と言われて、母は「あら、生まれつき首が斜めですの。どうしましょうか?」と言ってたそうだ。この親にしてこの子あり、ってやつ。
中学時代はバスケ部仲間と一定の非行に走り、校長室でバットでお尻を叩かれたり、体育教師に殴られたりする。先生や教育委員会とかを舐め切ってた。高校は女子校に行き、スカートをつんつるてんにして渋谷で遊びまくった。でもテストはそつなくこなしいつも成績はトップで、バスケ部にハマったけれど、1年間は塾で勉強し、受験した大学(東京女子大学や学習院大学等々5つくらい受験した)は9割合格するも、爽やかそうだからというイメージ先行で青山学院大学へ進む。働きたいから何種類ものバイトを掛け持ちし、お金を貯めては世界を旅して、学校はテストだけ受けに行って卒業する。その間、1年間休学してイギリスに行く。アルバイトは、世の中を知るために、競馬場で働き、六本木のキャバクラで働き、人を綺麗に輝かせるマッサージをして、高級レストランでソムリエを目指しながら、広報をして、人生エンジョイしながらも、腐った現実を遠目に見ていた。
卒業後は、就職なんてしたくないからアルバイトの延長でボディマッサージやレストランの広報を続けようと思ってたけど、父親に首根っこを掴まれてマスコミ企業に就職するも、面接からおっさんのセクハラが始まり、勤めてみたらパワハラや女上司からの嫌がらせは当たり前。毎日電車の中で、岡本太郎の芸術は爆発だ!を読みながら号泣して、一駅一駅降りては帰りたいと悩むも、結局会社へ辿り着く日々。
プライベートでは大学の友人達とクラブ遊びして、誰もいない森を探してレイブパーティーして、とにかくこの世の現実から目を背けていつもラリっていたかった。
でも会社で働いている間、脳みそが溶けているのが手に取るようにわかって、次第に距離を置いていった。
自分を好きにもなれないし、人生も嫌だし、世の中も嫌いだし、社会なんて人間なんて終わってるって思ってた。
だからスノボーでプロ用のジャンプ台からぶっ飛んだ。死んでもいいと思ってたし、小さな頃から夢だった、空を飛ぶことを実現したかった。でも幸か不幸か、生きていた。1mmずれてたら車椅子か、死んでた。その瞬間、リフトも止まり、放送が流れ始めた頃に、私は息を吹き返した。最初に感じた腰に走る激痛に、「女が子供を産む時はきっとこれより痛いはずだ!!」と、自分を麻痺させた。
クラブで遊び疲れて一人になりたくて、車を運転したらリムジンバスに突っ込んで親の車を廃車にしたり、
危なっかしくてもう金輪際あんたとは絶縁よ!と母にキレられたこともある。
とにかく人生に希望を見出せないでいた。
学生時代からの友達との四角関係という超歪んだ関係性も、2年越しの愛が実って結婚したところ、東大エリートの相手の家庭からは我々家族は馬の骨のように扱われ、結婚式では完全無視される。私の姉の精神病の遺伝子があるからと、結婚も子供を産むことも反対された。東大エリートの先方の父方は米国の最新データをフォローしていた。後で分かったことだけど、実は向こうにも躁鬱病の家族がいるから、その掛け合わせを恐れていたのだが、うちの家庭だけが、バイ菌扱いされた。
息子(当時の元夫)は、それでも諦めたくないために、何件も病院にアポを取り、先生に話を聞いて回るも男性の先生はみなデータが正しいだろうと冷たくあしらい、最後は素敵な女性の先生に、「データと愛(奇跡)と、どちらを信じるの?」と聞かれ、私たち二人は一瞬救われたが、結局彼の父親の影響は拭えず、彼とは総計11年を共に過ごした後、彼の父親が癌でなくなる寸前にきっと子供を見せたかったのだろう、どんどん家に帰ってこなくなり、いつの間にか消えた。そうして1年後にある女性と子供を産み、その子は1歳になっていることを知った。
私には子供を産む資格を与えられなかった、米国のエリートが作った最新データのために!そんなデータが誰かを不幸にしているとも、世界の奇跡を潰しているとも知らずに、今日も科学者は大金を使ってデータ収集に勤しんでいるのです。奇跡を、人間の可能性を信じない者たちに私の女性としての可能性は潰された。
私は、(おそらく子供が産まれてしまう前に離婚したいかったからだろう、)元夫に離婚状へのサインをせがまれ、日々電話で脅され、否応なくサインした。もう関わりたくなかった。希望のない人とネガティブな話をする気もなかった。私の両親も、裁判とか慰謝料とかどうでもいいから自分を大切にしなさいと言ってくれた。
私は現実から逃げるように仕事に邁進した。すでに仕事は私の中毒だった。私にとってこの世に見出した唯一の居場所だった。毎晩同僚と飲み歩き、毎日違う男とデートしていた。
そんな中、レッドブルで一番の花形のレッドブルミュージックアカデミーを担当し、50人の日本人と50人のドイツ人のチームをグローバル広報としてリードし、坂本龍一やブライアンイーノやエリカバデュなどトップアーティストと、世界で選ばれた音楽家の卵を含む200人のミュージシャンを迎え、400人の世界のジャーナリストを迎え、ひと月の音楽学校を渋谷で主宰した。1時間に及ぶ6本のドキュメンタリー映像を作り、毎日3箇所でイベントを行い、youtubeや渋谷の大きなヴィジョンでそれらを同時に生配信し、すべての場所で写真を撮り、ブログを毎日更新し、ジャーナリストを束ね、アーティストの肖像権の契約交渉をし、日々メディア露出を図り、メディア用のイベントやインタビューを企画し、それら全てを、1分刻みで判断を下してチームを動かさないといけない。人間業を遥かに超える仕事量をこなす。1日2時間も寝られないのに、朝オフィスに行けば上司やスタッフから小言や文句を言われる。まだ決まってないの?これはどうするの?あれはどうするの?なんでやってないの? と。もう頭がショートしてて働かない。判断も下せない。そんな中、やっかみを持つ日本人の女上司から、本社の幹部たちにハッタリを吹き込まれ、私が幹部からダメ出しを喰らったりといった低レベルの嫌がらせを受ける。もう息をしているかどうかもわからない状態でひと月を駆け抜けた後、世界中のミュージックアカデミーの担当が経験するポスト・バーンアウト。私も御多分に洩れず、バーンアウト。期間中に仲良くなったドイツ人チームと一部の日本チームと、プロジェクト終了後に慰安旅行として温泉旅行に行き、帰ってくると日本人チームから妬みの応酬。
「同じ会社内であればどの国に行っても、見栄と妬みと競争とエゴ満載の環境。もう、こんなところで働きたくない。」という感情しか残らなかった。もちろん、レッドブルは今でも尊敬している。あんなにマーケティングに力を入れて、その活動といえば、世界中のタレントをフックアップして文化活動を通じて貧困をなくしているし、会長のディートリッヒマティシッツは思想も含めてクールな人だった。
そんなこんなで、その前の数社と9年もいたレッドブルで、いい加減、資本主義の構造に嫌気が指していた。
循環しない経済、消えゆく日本の伝統産業にやきもきしてレッドブルに企画を提案するも、日本のカルチャーで金になるのは相撲と歌舞伎と寿司だけだ!とろくに話も聞いてもらえない。この頃はまだ繊細で、自分の企画書の力量を嘆いていたけど、資本主義のシステムに個人が傷つけられるという体験の一つだったことを、バカなピュアだからわかっていなかった。
そうして、循環経済、日本の伝統継承、誰もが来られる"場"をつくる、という3本柱をミッションに仕事を探していた時に、宇宙からの采配で出会った社長がスタートする飛騨市での地方創生事業(林業復興と組み木技術の伝承、宿とデジタル工房とカフェという場づくりを通じて)に現地ディレクターとして関わることになり、飛騨市へ一人移り住む。
世界中から学生や建築家、デザイナー、大手企業などを招き、ひと月の教育合宿やデザインスプリントをやり、世界中のデザイナーやアーティストは地域の職人の技術を学び、代わりに世界最先端のアイデアやインスピレーションをプロトタイプ制作を通じて残してくれて、カフェのメニューを作り、宿をスタートさせ、日々カフェや工房でイベントをやり、地域の職人やクリエイターや主婦の方達を、レッドブルの時と同じくヒーロー、ヒロインにして可能性を花開く。森フェスを毎年開催し、都心から地域や森に関心を寄せてもらう。初年度はみんなの力が合わさって450人もの人が来てくれた。
たくさんのコラボレーションを生み出し、そこから製品になるものをプロデュースし、毎年通ってくれるファンを世界中に生み出す。レッドブルでの究極な経験が役に立ち、ゼロから価値を生み出し、2年で黒字化する。しかし私の心はボロボロだった。離婚後、ろくに自分の心のケアをしてあげることもなく突っ走ってきて、魂を蔑ろにして生きてきた。自己価値が低いからやってもやっても自己評価が低い。それに乗っかって会社も私を利用する。ネガティブループだった。グローバルとローカルの歪み、地域行政、市長や住民との関係性や、日本で一番閉じた自治体と言われるだけに、地域からは批判され、会社からは馬車馬のように働かされるのに新入社員並みの給料(会社を作ったばかりだからそれはもう仕方ないんだけどね)。最後は、地域のおばちゃんの意地悪で切ない一言で宇宙から大きな石が落ちてきて頭を打たれたように倒れた。病院では腎臓の数値が最悪、東洋医学でも腎臓にもう一滴も水がありません、と言われ、「OK! 体がようやくサインを出してくれた。こんなに身を粉にしてがんばってきたんだから、もういいよ、ってことだよね!」とスイッチを切り替え、立ち上げの一番大変な時期を乗り越え、世界的に認知され、世界中から通ってくれるファンができて、事業の黒字化も達成し、3年間の契約は守りました!と言って去った。
それから東京に戻り、自営業となり、あらゆるソーシャルグッドのスタートアップを支援するようになった。建築の民主化を目指す建築集団、非中央集権やポスト共感資本主義を目指しブロックチェーンをベースに新たな社会システム/村をつくる企業、東京中をデザインとアートで染めるアートフェスティバル、演劇チーム、ドイツのシューズメーカー、イギリスのアートエージェントやPRエージェント等々、自分が惹かれる企業の広報とブランディングの支援をするも、頭の7割くらいは前の会社の社長の怖い顔に支配されていて、やがて、「トランスフォーメーション」というレーベルが頭にべたっと現れ始める。そう、変容のコーリングがあった。そうして、ユングに師事したアーノルドミンデルのプロセスワークを学び始めるも、私の抱えているものの大きさに講師たちが弱音を吐いたので、米国のアーノルドミンデル本人がいる学校に通おうかと思っていた矢先に、ペルーからのコーリングがあり、プランツメディシンやシャーマニズムに浸透していく。ペルーから戻っても沖縄でシャーマンと共に洞窟に篭り、プランツメディシンの合法化を沖縄政府に訴える活動をしつつも、半分の冷静な私は企業からのノマドワークを続け、グローバルに広報する業務をジプシー契約として請け負いながら、あらたな社会のあり方を模索して、世界の魔女ワーク、錬金術、エコビレッジを周りのリサーチを始めた。イタリアでエコビレッジのデザインとトレーナーの勉強をして、村づくりの気合の入った提案書を携え、村づくりの希望を持って日本に帰ると、世界はコロナ現象で包み込まれる。狐につままれたかのような世界絵だったよね。
この期間、鎌倉で働きながら「菌」という地域通貨づくりなどに関わるも、京都と鎌倉をクライアントワークで行き来し、京都で結婚することになり、移住。
この夫との間でも、最後は互いに精神病扱いで罵り合うという事態になり、関係性は断絶。3年以内のことだった。
同時期に父が死に(これも私の変容となる体験だった。ブログに書いてある。)、孤独にがんばった体外受精でお腹に2度宿った子供も悟ったのか、流れていった。
そうしてミッドライフクライシスが一気に訪れた。鬱々として眠れない日々。何もやる気がしない、もう終わりにしたい。もう生きてなくていい。光になりたい、と願った。
カウンセリングにも精神科にも頼りたくない私は、一筋の希望を見出し、コーチングを学び始める。それも日本とアイスランド2つの学校を同時に。
そして直感で、体と心は同時にアプローチするべきだと気づき、妊娠したくて通っていた女性の子宮を解放するエナビューティーマッサージの講習も同時に受け始める。エネルギッシュに立ち上がり始めた。
そしてアイスランドから私を訪ねてきてくれた友達のガイドでアイスランドに行き、神秘体験をいくつもする。魂で会話をしてくれる仲間と出会い、彼らに抱擁され癒され、自分の中に愛があるということに人生で初めて気づくことになる。自分を愛するということは、こういうことか!と。
自分を愛すると呪文のように唱え、頭で理解しようと思っていたけど、それはナルシシズムの危険性がある。そうではなくて、自分全部が愛になるということだ、と体で感じた。これを教えてくれたのは、クンダリーニの覚醒をしてエネルギーを自分の体内でコントロールできる妖精のような男女だった。結婚という既成概念からも解放され、オープンで新たな男女の関係性を築いていた。目から鱗だらけの体験だった。
その、自分が愛になるという目から鱗の体験を、苦しんでもがいている日本人の方々に伝えたくて、 Pavelとタッグを組んで、3ヶ月後の12月に、リトリートを企画。
質的に大成功だった。量子力学、波動や周波数を頭で理解し、体で体感するリトリート。こういった質のリトリートは新しく、殆どのリトリートがちょっと自然の中にいって美味しいご飯を食べてヨガと呼吸と瞑想しましょう、といった楽しい感じなので、シリアスに自分と向き合う密度の高いリトリートとなったし、告知期間も短すぎたからか人数は少なくても、参加してくれた全員が感動して、これは本物だった!と心を震わせて一人残らず動画インタビューに協力してくれた。
それが終わると、私はインドに向かう。インドには源流があるとわかっていた。まさにあった。本質があると思っていたから出逢えた!
そこで、アイスランドと同じく、西洋人が主催しているタントラフェスに参加した。
アイスランドのフェスに参加して、私は全く興味がないことはわかっていたけれど、大切なアイスランドの友人に誘われてインドで待ち合わせることになってたし、大事な友情だったから、10万円を払って参加した。これくらいの金額になると感覚が麻痺するから、友情代だと思って参加した。
案の定、フェスティバル自体はエロくて表面的で商業的で、女を売りにしている女たちばかりで、普段モテないからモテたい男たちばかりで、私はほぼ冷めていた。でもいざという時には一気に大胆にもなっちゃうからその本番力には自分でも脱帽。笑
しかし全く本質がなかった。
でも大切な友人との友情は育めたから、高くない出費だった思う。
その後に、引き続きインドで、アイスランドで出会った同じ友達の仲間のローハンが率いるクンダリーニの覚醒のリトリートに参加する。
これについては、散々書いてるのでここでは省略する。
この世の本質、宇宙の本質とつながったし、それが現象として私の心と体に現れたし、今でもこの効果が続いていて、毎朝の瞑想で、目を瞑った瞬間から思考のない世界が現れ、限界をぶすぶすっと破っていく音と共に思考が打ち砕かれていくようなイメージがある。
そしてニルバーナを味わうと、1日を平和に過ごせる。
その波動に人や動物も引き寄せられて、女とも男とも赤ちゃんとも猫とも犬とも仲良くなれて、別に特定のパートナーがいなくても最高に楽しい!
いない方が自由で束縛されなくていいし、自分も束縛したり、期待を裏切られるとか、ジェラスとかそういう感情を味わいたくない。誰かといたい時はいればいいし、何かを育みたい時期が来るまで自由に飛び回っていればいいじゃん、って思ってる。
覚醒すると、心も体も若くいられるから、年齢で何かを制限したり、若い人に劣等感を持ったりすることもない。
むしろ、こんなに若いのに、実年齢がいってる分たくさん経験しているから超ラッキー!と思う。
というわけで、あの天才空海もクンダリーニを覚醒して、唐の国に行き、その人格の素晴らしさを認められ、最終的にはインドの古代タントラを持ち帰り、真言密教として開祖されたらしいのだから、根源エネルギーを起こすことのすごさよ!ということで、私はこれを準備ができた人にはどんどん勧めていきたいという思いでやっています。
とっても長くて結局何を言いたかったのかな?と思うと、
そうですね、ようやく自分にOKを出せる生き方ができるようになった不器用な私、ということで、自分の超個人的な人生の歩み方をつらつらと書いてしまいましたが、どなたかの何かしらのヒントやこんなパンクでロックで、直感のまま生きたいように生きてる奴がいるんだ、と勇気を出してもらえたりしたら、とっても嬉しいです。そう、もう自分に嘘をつかないで、自分を一番大切に、自分の声に素直に今を一歩踏み出してみてください。それがまた明日の勇気になるから。明日の心配なんてしなくていい。明日は幻想。今しかないから。今を最高マックスに行き切った先に、あなた独自のとても美しくて、キュートで、アーティーで、クールな人生があるんだよね。それは棺桶に入るまで、もしくは入ってもわからないほどの未知に満ちたスペシャルワンダーな物語なんだよね❤️ 次に生まれ変わった時にふと思い出すかもしれないしね!
ここまで読んでくださった方がいらっしゃるのであればとっても嬉しいです。😍
ありがとうございました!