この世に焼き肉がある限り。
焼き肉ほど満足度の高いご馳走はない。
スーパーやお肉屋さんでちょっと良いお肉を買って、ホットプレートで気兼ねなく焼く「お家焼き肉」も好きだけど、焼き肉といえばやっぱりお店で食べたい。
焼き肉にまつわる興奮は、口にする瞬間からでなく、メニューを開いたときからもうすでに始まっている。
盛り合わせ、本日のおすすめ、期間限定などなど、お店により少しずつ違うラインナップ。
毎回、注文するものはさほど大きく変わらないのだけれど、並んだ文字や写真を目で追っているだけで、なんだか口角が上がってくる。
しばらくすると運ばれてくるお肉たち。
思わず目を奪われるあの色!
お皿に行儀よく並んだ赤身の、目も覚めるような艶やかなルビー色。
真っ白なサシが繊細に織り込まれたお肉は、ちょっと芸術的ですらある。
また、タレをまとって、てらてらと艶やかに照明を反射している様もまた良き。
そんなお肉たちを目で楽しむのもそこそこに、うきうきと網の上に並べていく。
下でちろちろと燃える火とぱちぱちとはぜる音。
じゅわあっと端から縮んで、色が変わってゆく様。
空間を支配する、焼けていく香ばしい匂い。
そのどれもが、胃をぐるぐると動かす要素となる。まだかな、そろそろひっくり返そうかな、トングでつついて様子を見ながら、段々上がってゆくボルテージ。「これがわたしの」と目星をつけたお肉を心ときめかせながら、熱い視線で見守る。
そしていよいよいい頃合いになったら、相手のとり皿、そして自分のお皿に焼き上がったばかりのお肉を移す。
待ってました、この瞬間!
はふはふ言いながらあふれ出す肉汁ごと咀嚼する。最高の「美味しい!」がもたらすこの幸福感よ。
ああ、きっとわたし、この瞬間のために生きている。
この世に美味しいものは数あれど、お肉を頬張るときの幸福感は、他の食べ物と一線を画す気がしている。
焼いたばかりのお肉を咀嚼する喜びは、本能的な歓び、とでも言おうか。命がけで捕らえた獲物を火に炙って食した、気の遠くなるような遥か遠くの先祖の記憶が、このDNAに深く刻み込まれているのかもしれない。
タン、ハラミ、カルビ、ロース、ホルモン。
たまにミスジや、イチボ、ヒレ。
歯に押し返す弾力が堪らない食感、もしくはぷりぷりと弾けてジューシーな食感、あるいは舌の上で優しくとろける食感。
みんな違って、みんな良い。どんなお肉もそれぞれに個性があって美味しいことこの上なし。
また、お肉によって、さっぱりレモン汁、どんなお肉にも合う甘辛いタレ、よりお肉の旨味を引き出すシンプルな塩、風味を添えるワサビ、後味が堪らないやみつきになるすり下ろしニンニク、爽やかさが足される細葱、などお肉の種類によって、薬味や味付けを変えて食すのも楽しい。
一緒に食べる白ご飯の存在も欠かせない。
お肉、ご飯、お肉、ご飯…気付けば、お椀のご飯がぐんぐん姿を消してゆく。この世で最も白ご飯がすすむ相手は、焼き肉かもしれない。
たまに箸休めに食べるキムチも良い相棒だし、玉ねぎ、キャベツを始めとした、焼き野菜もまた違うベクトルの美味しさがある。
焼いたら甘みが増す、カボチャやとうもろこしなんかも大好き。
とり皿が空になり、どんどん網の上に並べて焼いて、食す、食す、食す。
そんなことを繰り返すうちに、気付けば、お腹も心もすっかり満たされていることに気づき、ふう、と幸せなため息をつく。
わたしは焼き肉が大好きだし、夫もそうだ。
付き合っていた頃もよく行っており、夫婦になってからは月に一回程度どちらからともなく、「そろそろ行こうか」と足を運んでいる。
そうすると、単純に数えても、我々は50回以上は共に肉を焼いている計算になる。
これまでの焼き肉にかかったお金は…ちょっと考えるだけで恐ろしい。しかし、毎回結構な金額がかかったとしても、お会計のときに一切後悔の気持ちが沸き上がらず、
「わあ、わりといったねえ」
とにこにこ言えてしまう、それが焼き肉なのだ。
普段スーパーで食材を買うときには、gあたりでここのスーパーは安い、今日はちょっと高いとその値段に一喜一憂し、滅多に牛肉をカゴに入れることもしないのに、焼き肉になると「食費」というくくりからいとも簡単に除外されてしまう不思議。
また、何か一日の中で気落ちすることや心乱れることがあったとて、
「今日(明日)は焼き肉だから」と考えることで、ちょっぴり心が上を向くことが出来る、その特別感と偉大さ。
きっとわたしは焼き肉を、一回の食事ではなくもはや一種のエンターテイメントとして楽しんでいる節がある。
焼き肉は受け身で提供されるものではなく、美味しく仕上げてゆく過程もまるまる楽しめる、というのも理由なのかもしれない。
数年前から一つ、心に決めていることがある。
もしわたしの大切な人が、激しく落ち込んでいたり、悲しんでいたりしたら、焼き肉に誘おうということ。
とはいえ、わたしの周りは比較的、感情のコントロールが上手な子が多いのか、もしくは年齢的なものなのか、感情が爆発あるいはあふれ出している渦中に「聞いてよ」と連絡してくるというより、気持ちが落ち着いてから、もしくは事態が収まってから「実はさ…」と連絡をくれる子が多い。
なので、今のところその機会は来ていないけれど。
その一瞬だけでも、その子が抱える悲しいこと辛いことが吹き飛ぶくらいの「美味しい」を五感で堪能してもらいたい。
そして2軒目でカフェなりなんなり寄ってさ、温かいカフェオレもしくはミルクティーでも飲んでさ、ゆっくり話を聞こうじゃないの。
もし帰り道、「美味しかったな…」って余韻に浸れるのなら、少しはその負の感情が和らいでいるかもしれないし。
実は、つい先日の焼き肉は束の間の「焼き肉納め」のつもりで行った。お子が生まれるとしばらくはこれまで通り、焼き肉に行くことは難しくなるからだ。ちなみに妊婦たちの間では、出産前に焼き肉を食べると、近いうちに陣痛がくるとか来ないとか。(所謂「陣クス」と呼ばれている)
愛する焼き肉、しばしのさようなら。
次に行けるときまでの、「とっておきの楽しみ」としておくことにしよう。
この世に焼き肉が存在する限り、いつだって何度だって元気になれることをわたしは知っているから大丈夫。
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