見出し画像

卒業式、斜め前の先生の涙が美しいと思った。

つい先日、わたしの勤める小学校で卒業式があった。
卒業生の新たな門出を祝うかのごとく、春の日差しが温かな日だった。

何度も練習したように、1人1人、ゆっくりと体育館の壇上にあがる卒業生たち。

担任により名前を呼ばれると返事をし、卒業証書を受け取って礼をし、またゆっくりと階段を降りてゆく。


卒業生である6年生へどんな思いを抱くかは、これまでの彼らとの関係性によると言える。

わたしはというと、卒業生であるこの学年の子たちを一度も受け持ったことがなく、さほど関わりがなかった。生徒指導会議や職員室でその名前が何度も挙がるような、所謂「有名人」を除いて、殆ど名前も分からない。

卒業生らしく立派に振る舞っているなあ、きちんと声が出ているなあ、と感心はするものの、特に込み上げる感情はなく、一応スーツのポケットに忍ばせておいた、ハンカチも乾いたまま。


ふと斜め前を見ると、田川先生(仮名)は卒業証書授与の間中、ずっと卒業生を見つめながら絶え間なく涙を流し、時々ハンカチで目頭をぬぐっている。

田川先生が泣いているところを初めて見た。

彼は、先陣を切って学校運営に関わるようなエネルギッシュでタフ、という言葉がぴったりな先生。
子どもたちに対しては、どちらかというと、優しいというよりは厳しい先生である。

そんな田川先生でも泣くんだ、と意外に思った。


彼は、この学年の子たちの専科を担当し、副担任のようなポジションだった。

この子たちの担任の先生と同じ熱量で、彼らを愛し、褒め、叱り、いつでも全力で向き合っていた。

わたしも、担任以外(担外と呼ぶ)のポジションを任されたこともあるから分かるのだが、担外の先生が子どもたちに対し、担任と同じ熱量で、というのは案外難しい。

担外の先生はいろんなクラスの子に関わる。

もちろんどの子にも一生懸命向き合うけれど、担任の先生の自分のクラスの子への帰属意識めいた「うちの子」という愛よりは、幾分フラットになる気がする。

だから、田川先生がいつも担任の先生たちと同じ熱量で子どもたちの話をするのがすごいな、と思いながら見ていた。

そして、そんな田川先生のはらはら落ちる涙を見て美しいな、と思った。

うれしかったことも、しんどかったことも彼らとの様々な思い出と感情をありありと思い返し、それが涙となって表れているんだろう。

それはきっと、これまで子どもたちと、誠心誠意関わっていないと湧いてこない感情なのだ。


わたしが異動する前に受け持っていた子たちの卒業式も丁度同じ日だった。

「碧魚先生、わたしらの卒業式来やんの?」
「あなたたちが卒業するとこ見たいけど、先生は自分の学校の卒業式があるから無理やなあ。」
「え〜残念。」

なんてやり取りしたのが懐かしい。

あかりは、りょうちゃんは、なほちゃんは、りくは、どんな返事の声や表情、ふるまいで卒業証書を受け取ったんだろう。

彼らの姿を目の前で見たら、間違いなくわたしのハンカチはぐっしょりと濡れるだろう。

…ああ、あの子たちが卒業するところも見届けたかったなあ。



いつか中学生になったあの子たちとも会いたいとは思うけれど、道でばったり出くわさない限り会えることもないだろう。


卒業してしまえば、子どもたちと連絡を取る手段もなくなる。
そして小学生は同窓会もさほどなく、卒業後は中学生や高校生と比べ、教え子と先生の関係性も続きにくい。


力を尽くしたとて、関わった1年でこちらが期待するような成長が見られないこともある。
こちらの想いも、さほど届かないこともある。
成果だって、数字で表れるわけじゃないし
それがお給料に反映されるわけでもない。

感謝されることもあるといえばあるが、
大抵のことが、して当たり前と受けとられる。
(別にそれが不満だとか、嫌だとかじゃない。そんなもん、なのだ。)

それでも、未来に咲くかもしれない花の種を蒔き続け、場合によっては身体や心の調子を崩しながらも、なんとか子どもたちのために踏ん張って1年を終える、たくさんの先生たち。

でもその数週間後である4月の新年度からは、全く新しい学年団や子どもたちと、また違う1年を走りだす。


…つくづく小学校の先生って、不思議な職業だよなあ、なんて思う。



いつまでこの仕事を続けられるのかはわからないけれど、先生である限り、関わった子どもたちが卒業してゆく姿に、気持ちが込み上げて涙が溢れるくらいの熱量を持っていたい。

斜め前の席で、涙を流し続ける田川先生を見ながらそう強く思った卒業式だった。


#卒業式 #小学校 #小学校の先生
#エッセイ部門








この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?