今週の読書 9/12「疾風怒濤精神分析入門」
ラカンをあれこれ読んでいたが、どうも難しい。嫌になる前に入門の入門みたいな本を読みたいと思い、あれこれ探してたどり着いた「疾風怒濤精神分析入門 ジャック・ラカン的生き方のすすめ」を読んでみた。
http://www.seishinshobo.co.jp/smp/book/b308595.html
格段にわかりやすい。それだけ単純化されているということなのだと思うが、ぼんやりアウトラインが掴めそうな気がした。五里霧中で、手探りで読んでいる状態からは脱却できるかも、というかすかな希望がもてた。
あとは期せずしていま、自分がやっているセラピーに関しても何か現状の停滞を打開してくれそうな要素がいくつか見つけられ、読み終わった後、爽快な気分になった。
前もラカンの言葉に触れた時、何か自分の中の疑問を解決してくれそうな期待を持ったが、それは今のところ間違いではなかったと思えた。
第一部は精神分析とは?という内容だ。意外とこれを説明している本は少ない気がしている。精神医学と臨床心理学の違いはわかっていたが、精神分析は臨床心理学の一つの手法かと思っていたので、この最初の章で語られたことはとても興味深い。精神分析とは独立した別個のものなのだ。目的を見るとそれは明白だ。精神医学は症状の治癒、臨床心理学は心理的問題の解決を援助すること、精神分析は自分の発言に潜む「思いもよらぬもの」に気づき、自身が納得のできる生き方を見つけること。精神分析は私が目指すものに近い。
第二部以降がラカンの理論の話だ。想像界、象徴界、現実界といったものもわかりやすい。まだ私は現実界の理解があやふやではある。言語では扱うことのできない領域ということか。ではそれはなんなんのか。再読する必要がある。
シニフィアンについてもとても興味深い。言語を超えたイメージなどない、言語によって支配されているとは思ってはいたが、この章はとても興味深い。シニフィアンってこんな重要だったんだな。シニフィエや、理解することに重きを置きすぎていたかもしれない。本文中にあった「意味のあるようなものは解釈ではない」というのは目から鱗だ。
むしろ意味があると思っていたことが実は無意味なものでしかなかったことを自覚するのです。
しかし分析の場においては、言語を意味によって使用することを中断し、言語のシニフィアン的性質が現れることが目指されます。
エディプスコンプレックス、これはなんでいつも男性前提で語られ、女性はなんだかちょっと比べると雑な印象がなど、毎度いろいろ思うところがあるのだが、そのモヤモヤにも言及されていて、そうだよな、と思う。
毎回鏡像段階の話は面白い。鏡に映る自分とは自分とは異なるもの「他者」であり、その他者なくしては、自我を見いだす事ができない。
一旦通読したものの、ファンタスムのところはちょっと未消化だ。
明日また再読したいと思う。