目をみて話ができるということ。

目をみて話すことが出来ない。

怖い。

いつからかな、こうなったのは。

でも、だれも気づいていない。表面上はうまくやっているし、明るい人と思われているし、悩みもなさそうとよく言われる。言いたいことを言っているように思われている節もある。でも全部ほんとうの自分ではない。そのはりぼての自分に誰も気づいていない。

いつしか、そのはりぼてで生きるのが上手くなって、上手くなっていけば行くほど、人の目をみなくなったように思う。みたらバレるようなきがするから。自分はそんなに自信のある人間じゃないし、できる人間じゃない。でもそれを出すことも怖くなってしまった。この人になら出してもいいな、という風に信じることが出来なくなってしまった。

人を信じられないということは自分を信じていない、ということでもあるのだと思う。でも、人に裏切られた経験があったら、人を信じることや自分を曝け出すことが苦手になったり、虚勢をはってしまうようになることは、否定されるべきことなのだろうか。それは、ある種の防衛能力として、生存能力として仕方のないことなのではないだろうか。

自分はもともと、人づきあいの良い方ではないけれども、いつもどこか人を信じていて、中学校でも、高校でも、非行するグループの人とも、大人しいいいわゆる文化系の人とも話ができた。それぞれにみんないいところがあって、むしろぼくからみると、そんなにとんがれることがうらやましく、みんなのその強い自信がどこから来ているのか、すごく興味があった。でも、同時に、人から評価されたり、人が他の人を好きとか嫌いとか思いのままに言っているその言葉一つ一つにビクビクしていたと思う。どこかで自分が好かれることはない、とも思っていたように思う。

そして、年齢を重ね、徐々に徐々に自分を好きになる人もいないわけではなかろう、と思って生きている時に、この人は信じてもいいだろう。という人に出会ったとしよう。もしも、そのひとが、梯子を外したとしたらどうだろうか。実は自分の人の良さを利用しようとしていたいだけだったということがわかったらどうだろうか。

それでも、ひとをすぐに信じられない自分を直していかないといけないのだろうか。それも自分のせいと考えなければいけないのだろうか。ぼくは、必ずしもそうではないとおもう部分がある。その性格のおかげで、人をよく観察できるようになったし、人の眉毛が少し動くだけでもその機微の変化をうけとることができるようになった。仕事では先回りして、やってほしいことやいってほしいことが感じ取れるきがするから、プラスに働いている部分もあるからだ。

だけど、同時にやっぱりそのままじゃだめだろ、というところもある。これでは人と上手くやっていくことは出来ないかもしれない。今後も人を信じることなく生きていくと思うと絶望的な気持ちになる。

信じている人から裏切られるというのはつらいつらいことだ。その傷は、どんなにケアしてもすぐには癒えるものではないのかもしれない。たぶん、「時間」が一番の治療だと思うが、そのその「時間」にいろいろ考えてしまうから治癒に時間がかかる、というのもまた事実。

だれにでも生きづらさというのはあると思います。それを少しでも誰かの役に立つ形で昇華できたらいいな、と願っています。



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